ギュスターブ・モワニエ
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Gustave Moynier
ギュスターヴ・モアニエ

生誕Gustave Moynier
(1826-09-21) 1826年9月21日
スイス ジュネーブ
死没1910年8月21日(1910-08-21)(83歳)
国籍 スイス
著名な実績国際赤十字創設
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ギュスターヴ・モアニエ(Gustave Moynier 1826年9月21日-1910年8月21日)は、スイス出身の法学者ジュネーブを拠点に数多くの慈善団体の活動にかかわり、なかでも赤十字国際委員会の創設と発展に極めて重要な役割を担った。歴代最長の42年間会長を務め、「赤十字の育ての親」とされる。

万国国際法学会の創設者のひとりであり、戦争の法規慣例の定義に尽力した国際刑事裁判所構想の先駆者のひとりとしても知られる[1]。「ギュスターブ・モワニエ.」などとも表記される。
経歴
幼少期 - 学生時代 - 結婚

1826年9月21日、父ジャック=アンドレ・モアニエと、母ロール・モアニエ(旧姓デオナ)の長男として、スイスジュネーブで生まれた[2][3][4]。兄弟はおらず、モアニエ家の一人っ子だった[3]。父ジャック=アンドレは、17世紀に宗教的迫害からジュネーブに逃れてきたフランス南部ラングドックの地方貴族の末裔で、父親が創業した時計工場「モアニエ・エ・フィス(モアニエと息子たち)」社の跡を継いでヨーロッパ各地で商いをしており、ギュスターヴが生まれたとき、生家は裕福であったという[2]。生家があったバス・デザルマン=ドゥシュ37番地(21世紀現在のラ・コンフェデラシオン通)は、時計や宝飾品や法蝋細工などを手掛ける職人や肉体労働者が住む下町で、商業の中心地であった[2]。ジャック=アンドレは積極的に息子に仕事を手伝わせたため、ギュスターヴは幼少期から父とともに4度パリへ旅行した[5]

父ジャック=アンドレは時計事業と並行して政界に進出し、リベラル派「第三党」の所属議員として、1843年12月13日には州政府の議員にも選出されている[6]

幼少期のギュスターヴ・モアニエは、有名私学であったプリヴァ校に通い、入学当初にはクラスを再履修したものの、最終的には優秀な成績を収めた[5]。並行して両親の友人であったプロテスタント牧師バルテルミ・ブーヴィエから宗教の教えを受け、やがてキリスト教カルヴァン主義の伝統を受け継ぐジュネーヴ学校(カルヴァン学校)に入学した[5]。1842年、16歳でジュネーヴ学校を退学すると、大学への入学が認められる20歳になるまで、ジュネーヴ・アカデミー高校に在籍し、20歳の時に芸術で修了証書を授かった[5]

高校卒業当時のギュスターヴは将来について特に希望もなく、父親の勧めのままジュネーヴ大学法学部への進学を決めていた。実業家であるとともに政治家でもあった父親は、息子が法学を学べば政治家の道が拓けると期待していたものと思われる[7]。しかし、1846年8月から10月、ギュスターヴが大学入学前にドイツ語に磨きをかけるべく単身でドイツハイデルベルグに赴き夏季休暇を過ごしていた最中の1846年10月6日から9日、ジュネーブでは急伸革命が勃発し、モアニエ家が属する裕福な中産階級は、貴族階級とともに権力を失い、ギュスターヴの父ジャック=アンドレは10月9日に議員辞職を余儀なくされる[6][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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