ギュゲースの指輪
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一つの指輪

ギュゲースの指輪(ギュゲースのゆびわ)は、自在に姿を隠すことができるようになるという伝説上の指輪である。リュディアの人ギュゲスが手に入れ、その力で王になったという。また、プラトンの著作である『国家』において、ギュゲスの指輪を元に議論が展開される。指輪の所有者は自身の意のままに透明になることができるため、不正を犯してもそれが発覚することがない。そのため悪評を恐れる必要がなくなるが、それでも人は正義を貫くかどうかが検討されている。
目次

1 文献

2 『国家』におけるギュゲスの指輪

3 文化的影響

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

文献 16世紀の魔法の指輪を見つけたギュゲスの伝説

ギュゲスの指輪の話は、プラトンの著作『国家』(ポリテイア)第2巻に記されている。ギュゲスという羊飼いは、あるとき地震によって開かれた洞窟に入り、青銅の馬をみつけた。馬の体の空洞には金の指輪を付けた死体があった。この指輪は玉受けを内側に回すと周囲から姿が見えなくなり、外側に回すと見えるようになるという不思議な力をもっていた。ギュゲスは王に家畜の様子を報告する使者の一人となって宮殿に入り、王妃に近づいて姦通した。それから二人で密謀して王を殺し、王位を簒奪した[1]。ギュゲスは豪富によってギリシャ人によく知られたクロイソス王の先祖である。

しかしヘロドトスの『歴史』第1巻には、透明になる指輪の話はなく、王に強いられていやいや王妃の裸を覗き見した臣下ギュゲスが、怒った王妃に王殺しを迫られたと伝える[2]。古代ローマのキケロは、指輪の話が事実でないと考えられていたことを紹介している[3]
『国家』におけるギュゲスの指輪

『国家』の中でギュゲスの指輪の話を紹介したのは、プラトンの兄グラウコン(英語版)である。グラウコンは、誰にも知られず不正を行なうことができる場合に、ギュゲスのように不正を行なって栄華を極める人と、正義を貫いて何も得ない人と、どちらが良い人生を送ったと言えるのかとソクラテスに質問した。正義を勧めるときに、世の人々は良い評判が利益につながることを理由として挙げるが[4]、それは、人に知られず不正を働き、良い評判を得たまま利益もおさめられればよいという考えにつながらないかという疑問である。

グラウコンの主張は次のものである。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、その一つを正しい人が、他の一つを不正な人が、はめるとしてみましょう。それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人のものに手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場から何でも好きなものを、何おそれることもなく取ってくることもできるし、家に入りこんで、誰とでも好きな者と交わることもできるし、これと思う人々を殺したり、縛めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに! ――こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。

ひとは言うでしょう、このことこそは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正をはたらくことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにはかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手をつけることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。—プラトン、『国家〈上〉』岩波書店、1979年4月16日、109-110頁。

ソクラテスの(あるいはプラトンの)答えは、正義はこの社会的構造から派生したきたものではないと主張し、不正に身を委ねるのは、自らを精神の中の醜く汚れた部分の奴隷にすることであり、外的な状況がどうあろうとその状態はみじめだというものであった[5]。ギュゲスの指輪の力を乱用した人物は実際、自身の持つ食欲に奴隷になったが、一方で指輪を使用しないことを選択した男性は、合理的に自分自身をコントロールしているため、幸せであるという。
文化的影響

キケロは『義務について』で有利さと道徳的高貴さの関係を論じる中で、ギュゲスの指輪問題に触れた。道徳的高貴さは自然の理法にかなっており、人間が究極的に求めるべき唯一のものであるから、利得のほうが良いと考えるべきではない、というのがキケロの意見であった
[6]。賢明で善良な個人は罰や負の結果ではなく、道徳的退廃の恐怖に基づいて行動を決定ずけるという。またキケロは哲学における思考実験の役割を論じた。問題となっている仮想的な状況は、指輪によってギュゲスに与えられた種類の罰を完全に免除するものであるという[7]


恋するオルランド』の最初の聖堂では、カタイ王ガラフローネが息子のアルガリアに指輪を与えている。この指輪は口に入れているときにその人を透明にし、また、指にはめると魅惑から身を守ってくれるものである。

ジャン=ジャック・ルソーは、1782年に出版された「六歩」(フランス語:LesReveriesdu promeneur solitaire)の中で、ギグスの輪の伝説を引き合いに出し、自分自身が透明の輪をどのように使うか考えている。

リヒャルト・ワーグナーのオペラに、アルベリヒの指輪(ニーベルングの指輪)がある。

H.G・ウェルズの 『透明人間』 は、ギュゲスの指輪の物語を元にした物語である[8]

J・R・R・トールキンの 『ホビット』と『ロード・オブ・ザ・リング』における「一つの指輪」 は、それを身に着けたものを透明にすることができるが、同時にその人を堕落させる。


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