キーン・ジョンソン
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キーン・ジョンソン
Keen Johnson


初代 アメリカ合衆国労働省次官
任期
1946年 ? 1947年
前任者新設
後任者デイビッド・A・モース
第45代 ケンタッキー州知事
任期
1939年10月9日 ? 1943年12月7日
副知事ローズ・K・マイアーズ
前任者A・B・"ハッピー"・チャンドラー
後任者シメオン・ウィリス
第37代ケンタッキー州副知事
任期
1935年12月10日 ? 1939年10月9日
前任者A・B・"ハッピー"・チャンドラー
後任者ローズ・K・マイアーズ

個人情報
生誕 (1896-01-12) 1896年1月12日
ケンタッキー州ブランドンズ・チャペル
死没1970年2月7日(1970-02-07)(74歳)
ケンタッキー州リッチモンド
政党民主党
配偶者ユーニス・ニコルズ
専業ジャーナリスト
宗教メソジスト
兵役経験
所属国アメリカ合衆国
所属組織アメリカ派遣軍
最終階級中尉
部隊第89師団第354歩兵連隊
戦闘第一次世界大戦

キーン・ジョンソン(: Keen Johnson、1896年1月12日 - 1970年2月7日)は、アメリカ合衆国政治家ジャーナリストであり、1939年から1943年まで、第45代ケンタッキー州知事を務めた。ケンタッキー州知事としてジャーナリスト出身では唯一の者となっている[1]第一次世界大戦に従軍した後、「エリザベスタウン・ミラー」を買収して、編集者となった。この苦境にあった新聞社を復活させた後に、競合相手に売却し、それで得た利益を元手に1922年にはケンタッキー大学ジャーナリズムの学位を取得した。同大学卒業後、「アンダーソン・ニューズ」の編集者となり、1925年には「リッチモンド・デイリー・レジスター」の共同出版、編集という提案を受け入れた。

1935年、民主党からケンタッキー州副知事候補に指名された。選挙でも当選して、1935年から1939年までA・B・"ハッピー"・チャンドラー知事の下で務めた。1939年、既に次の知事候補になることが決まっていたが、アメリカ合衆国上院議員M・M・ローガンの死去に伴い、チャンドラー知事が辞職し、ジョンソンが知事に昇格することで、空席になった上院議員にチャンドラーを指名した。この年にあった州知事選挙でも共和党の対抗馬キング・スウォープを破って4年間任期の知事となった。ジョンソンは州内の社会サービスを拡大したいと考えていたが、第二次世界大戦の勃発により、財政的な歪が生じたために難しくなった。それでも財政面では保守的な運営を行い、当初700万ドルの赤字だった州財政を、任期がおわるまでに1,000万ドルの黒字まで改善させた。

ジョンソンは知事を辞めた後に、レイノルズ・メタルズに社長の特別補佐として入社した。同社には1961年まで務めた。1946年に1年間の休暇を得て、ハリー・S・トルーマン大統領から初代アメリカ合衆国労働省次官の指名を受け入れ、ルイス・B・シュウェレンバック長官の下に仕えた。1960年にはアメリカ合衆国上院議員選挙に出馬したが、現職の共和党員ジョン・シャーマン・クーパーに敗れた。ジョンソンは1970年2月7日に死亡し、リッチモンド市のリッチモンド墓地に埋葬された。
初期の経歴

キーン・ジョンソンは1896年1月12日に、ケンタッキー州ライアン郡のブランドンズ・チャペルにあった2室だけの小屋で生まれた[2]。父は牧師のロバート・ジョンソン、母はマッティ(旧姓ホロウェイ)であり、その唯一の息子だった[3]。両親はアデア郡出身の家族ぐるみの親友であるジョン・S・キーンから息子の名前を付けた[4]。ジョンソン家には他にキャサリン(ケトゥラ)とクリスタインという2人の娘もいた[5]。父のロバートはメソジストの牧師であり、その職業故に何度か居所を変えた[2]

ジョンソンは公立学校で初等教育を終えた後、エルクトンにあったメソジストの施設である少年用バンダービルト予備学校に入学した[5][6]。1914年にこの予備学校を卒業しミズーリ州ファイエットにあるセントラル・メソジスト・カレッジに進学した[2]ミズーリ大学のジャーナリズム学校に進んで学習を継続する意図だったが、第一次世界大戦アメリカ陸軍に従軍するために中断させられた[2]

ジョンソンは陸軍の基礎訓練を受けた後、1917年5月15日にカンザス州フォートライリーで士官訓練に入った[2][5]。1917年8月、少尉に任官され、キャンプ・ファンストンでアメリカ派遣軍第89師団第354歩兵連隊に配属となった[4][5]。1918年3月29日に中尉に昇進し、同年6月4日、フランスへ派遣され、陸軍ライン・アンド・スタッフ・カレッジ学校で兵站通信を勉強した[5]。アメリカ派遣軍と共に1919年4月までヨーロッパに留まり、同年10月31日に名誉の除隊となった[5]

1917年6月23日、まだ陸軍の訓練を受けている間に、ユーニス・ニコルズと結婚した。夫妻の子供は1927年5月19日に生まれた娘ジュディス1人だけだった[2]。軍務から復帰すると、父からの財政的援助を得て、「エリザベスタウン・ミラー」を買収した[2]。ジョンソンは苦境にあったこの新聞をほとんどゼロから立て直し、間もなく競合相手に売って利益を出した[2]。ジョンソンはこの利益を使って、ケンタッキー大学での勉強を続けた[2]。その学生である間に「レキシントン・ヘラルド」の記者も務めた[4]。1922年にはジャーナリズムで学士号を取得した[2]。ケンタッキー大学は後の1940年に、ジョンソンに名誉法学士号を贈った[5]

ジョンソンは卒業後、「アンダーソン・ニューズ」の分割所有者となり、編集者かつ発行者を務めた[4]。1925年、シェルトン・M・ソーフリーが、「リッチモンド・デイリー・レジスター」を買収する共同事業のパートナーとなる話を持ち込んできた[2]。ジョンソンは日刊紙を発行するという考え方に魅力を感じ、その提案を受け入れた[2]。その論説の1つが認められ、1932年にはケンタッキー州民主党中央委員会の事務総長に指名された[6]。ジョンソンはこの職を継続し、1939年まで「リッチモンド・デイリー・レジスター」の発行を続けた[6]
政歴

1935年、ケンタッキー州副知事選挙で、民主党の指名を求める3人の中に入っていた。予備選挙では、対抗馬であるJ・E・ワイズとB・F・ライトに勝利した[5]


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