キース・リチャーズ
1973年
基本情報
別名キース・リチャード
Keith Richard
生誕 (1943-12-18) 1943年12月18日(80歳)
イングランド、ケント州
ダートフォード
ジャンルロック
ブルース
カントリー・ミュージック
レゲエ
リズム・アンド・ブルース
職業ミュージシャン
ギタリスト
ソングライター
音楽プロデューサー
担当楽器ギター
ヴォーカル
ピアノ
ベース
活動期間1962年 - 現在
レーベルデッカ・レコード
ローリング・ストーンズ・レコード
ヴァージン・レコード
共同作業者ローリング・ストーンズ
ザ・ダーティー・マック
ニュー・バーバリアンズ
キース・リチャーズ(Keith Richards, 1943年12月18日 - )は、イギリスのロック・ミュージシャン、ギタリスト。ミック・ジャガー、ブライアン・ジョーンズと共にローリング・ストーンズを結成した。ジャガー/リチャーズ名義で数多くの楽曲を制作し、ヒットさせている。また、ジャガーとの「グリマー・ツインズ」名義でプロデュースも行う。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第10位、2011年の改訂版では第4位。 キース・リチャーズは1943年、ケント州ダートフォードで労働者階級の家庭に生まれる。13歳の時、母親から贈られたギターに傾倒するようになる。ダートフォード・テクニカル・スクールに入学するが、除籍される。1960年、シドカップ・アート・スクール在学中に幼い頃からの知り合いだったミック・ジャガーに再会。しかし、それまでも互いに話すことはなくとも見かけることはあったという。リチャーズによると、ダートフォード駅
略歴
当初、カバーバンドとして活動を開始したストーンズだったが、オールダムの方針で、リチャーズはジャガーと共に自作曲の制作を開始し、その共同名義に「ジャガー/リチャーズ」を宛てた。やがてこのソングライティングチームは多くのヒット曲を連発し、リチャーズはジャガーと並んでバンド内での主導権を得た。1969年、初期のリーダー格だったジョーンズの脱退と死去に伴い、それは決定的となる。
1967年、薬物乱用の疑いにより家宅捜査を受け検挙されてから約10年間、断続的に薬物による問題を起こす。この家宅捜査についてはいくつかの疑問が残されていて、リチャーズ自身も「記憶にないヘロインが自分の家から出てきたんだ」と発言している(薬物中毒が悪化すると、麻薬を購入したことや、それを保管した場所だけでなく、使用したことすらも完全に忘れてしまう症状が出ることがある)。1972年、フランスのニース治安裁判所から交友関係のあった女優アニタ・パレンバーグとともに麻薬使用に対する逮捕状が出される[2]。1977年、トロントで麻薬売買の容疑で逮捕されると本格的に薬物中毒の治療に取り組み、現在では完治に成功している。
また、1978年12月にはソロ名義でシングル「ハーダー・ゼイ・カム/ラン・ルドルフ・ラン」(前者はジミー・クリフの、後者はチャック・ベリーの、それぞれカヴァー)を発売している。薬物中毒から立ち直ったリチャーズだが、1980年代に入ってジャガーとの軋轢を徐々に悪化させ始める。アルバム『アンダーカヴァー』の発売後、ミックが本格的にソロ活動を行い始めたことが一因となっている。キースにとってはストーンズが活動の中心であったため、こうしたミックの活動に我慢ができなくなっていった。さらに不運が続き、メンバーたちの仲を取り持っていたイアン・スチュワートが死去。このために軋轢が激化し互いに歯止めが利かなくなっていったことで、80年代半ば、ストーンズは解散の危機を迎えた。1982年
そんなバンドの状態の中、1986年には『ダーティ・ワーク』を発表した。この作品は、ほぼ全編に渡ってキース主導の下制作されたことが強く影響していることから、「キースのアルバム」と呼ばれることもある。同作品の最後には、キースのアイディアで1985年12月に亡くなったスチュワートへの追悼の意味もこめて、彼の弾く「キー・トゥ・ハイウェイ」が隠しトラックとして収められている。またこの頃、キースは憧れているチャック・ベリーの還暦を祝うこと、影響を与えたことに対する感謝の意味を込めてチャックのドキュメンタリー映画を製作。キース自身がプロデューサーとなりながら、長年のノウハウを用いてチャックのバックに努めている。この映画は「ヘイル!ヘイル!ロックンロール(英語版)」として1986年に公開され、翌1987年のナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 ドキュメンタリー映画賞に見事輝いている。この映画によるセッションがきっかけで、ついにキースはこのバンドで組んだドラマー、スティーヴ・ジョーダンと共にソロ・プロジェクトを立ち上げた。これはメンバー中、もっとも遅い本格的なソロ活動となった。キース・リチャーズ&エクスペンシヴ・ワイノーズ(英語版)として活動を始めたキースは、1988年にアルバム『トーク・イズ・チープ』をリリースし、数は多くないながらもツアーも行っている。アルバムではキースのリーダー作という雰囲気が全編に渡って感じられる仕上がりとなっているが、プロデュースの名義にはジョーダンの名もあげられている。ジョーダンは後にこのことについて、「キースが曲から歌詞まで全部やると思ってたのに、アイディアを求められたんだ」と発言している。ちなみに、エクスペンシヴ・ワイノーズとは「飲んだくれ」という意味で、レコーディング中に高級な酒ばかりを飲んでいたことに由来し、キースらしいジョーク混じりの意味に転じたもの。近年のキース(2018年)
1989年になると、各自で行っていた活動に変化が訪れた。ロン・ウッドによる提案で、キースはミックと対面しリラックスムードの中ストーンズの活動について話し合う機会を得た。そこでは自然と新たな曲作りが行われ始めたとのことで、一気にレコーディングという流れになっていったという。