キンメリア人
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この項目では、騎馬民族について説明しています。地質時代ジュラ紀のキンメリア期については「キンメリッジ期」をご覧ください。
ウクライナの切手(2019年)敵の騎馬を襲うよう訓練をした犬を引き連れたキンメリア人とギリシア人の戦いを描いたクラゾメナイ産の石棺(英語版)の絵キンメリア人が行う狩猟の様子。ギリシアの花瓶から

キンメリア人(キンメリアじん、英語: Cimmerians, Kimmerians, 古代ギリシア語: Κιμμ?ριοι)は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。ギリシア語ではキンメリオイと呼ばれる。そのため、彼らの住む地域(南ウクライナ)はキンメリアと呼ばれた。
歴史
キンメリア

キンメリア人の住地すなわち「キンメリア」は現在の南ウクライナにあたる。それを思わせる記述がヘロドトスの『歴史』、ストラボンの『地理誌』に記されている。スキュティア人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方に移ったという。今日スキュティア人の居住する地域(南ウクライナ)は、古くはキンメリア人の所属であったといわれるからである。 ? ヘロドトス 第4巻11

[1]キンメリコンは、以前は市で半島の上に位置し、堀割と堤防で地峡を封鎖していた。ボスポロス地方ではかつてキンメリア族が大きな兵力を保有し、この地方に「キンメリア」の異名が付いたのもこのためだった。そして、黒海右岸からイオニア地方にかけての内陸諸地域の住民を追出した。それから、スキュタイ族が後者をこれらの地域から追払い、そのスキュタイ族をギリシア人が追払ってパンティカパイオンをはじめとするボスポロス地方諸都市を建設した。 ? ストラボン 第11巻第2章5

[2]

ストラボンの時代、現在のケルチ海峡はキンメリオス・ボスポロス海峡と呼ばれていた。その様子と名の由来をヘロドトスとストラボンは以下のように記している。いまもスキュティア地方には、「キンメリア砦」とか「キンメリア渡し」[3]とかがあり、キンメリアの名で呼ばれる地方もあれば「キンメリア・ボスポロス」と呼ばれる海峡もあるのである。 ? ヘロドトス 第4巻12その(ポセイドニオスの)推測によると、キンブリ族は盗賊と放浪を常とする部族なのでマイオティス湖(現在のアゾフ海)周辺まで遠征を行った結果、この部族の名からキンメリオス・ボスポロス海峡という呼び名ができた。ギリシア人がキンブリ族をキンメリオイという名にしたので、キンブリコスというべきところをキンメリオスと呼んだ。 ? ストラボン 第7巻第2章2山ではもうひとつキンメリオン山もおなじ山岳地帯にあり、山名はキンメリオイ族がかつてボスポロス地方に勢力を張っていたことから来ている。マイオティス湖口につづく海峡を総称してキンメリオス・ボスポロスと呼ぶのもこの歴史に基づく。 ? ストラボン 第7巻第4章3
スキタイの西進によるキンメリア人の南下

スキタイは初めアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ(一説ではイッセドネス人)に攻められた結果、アラクセス(ヴォルガ)川を渡ってキンメリア地方(黒海北岸)に移り、そこにいたキンメリア人を追い払って代わりに住みついた。この時、キンメリア人はスキタイ襲来に先立ち、王族側の徹底抗戦派と民衆側の逃走派に分かれていたが、王族側が国土をすてて逃走するより祖国で死んだ方がいいということで、全員殺し合って死亡した。残った民衆側は王族たちの遺骸を埋葬すると、海岸沿いに逃げてアジアに入り、スィノプのある半島に落ち着いた。スキタイはキンメリア人を追ってカフカス山脈を右手にしつつ南下したが、道を誤ってメディアの地に侵入した。

[4]
アナトリア侵入後また、キンメリオイ族はその名をトレレス族ともいい、あるいは後者が前者の一部族だともいうが、この部族はしばしば黒海右岸域や自分たちの地方に隣接する諸地域へ侵入し、時にはパフラゴニア(英語版) 地方へ入り、さらにプリュギアの諸地方へも入った。後者への侵入はミダスが雄牛の血を飲んで死の運命に身を任せたという話のある時の出来ごとだった。リュグダミスは自分の部族を率いてリュディア、イオニア両地方にまで進み、サルデイス市を陥れたが、キリキア地方で落命した。キンメリオイ、トレレス両族ともしばしばこのような侵略を行ったが、話によるとコボスの率いるトレレス族は最後にはスキュタイ族の王マデュスの手でその地方を追われた。 ? ストラボン 第1巻第3章21

ストラボンのこの記述によれば、キンメリア人は紀元前695年アナトリア中西部のフリュギア王国のミダス王を自殺に追い込み、紀元前670年?紀元前660年代初めにはアナトリア西部のリュディア王国の都サルディスを一時占拠した。[5]
アッシリア史料における「ギミッラーヤ」キンメリア人の進路(ピンク)と周辺国(水色がコルキス王国、黄色がウラルトゥ王国、紫が新アッシリア王国)。 715-713 BC

前8世紀末?前7世紀のものとされる新アッシリア時代の楔形文字碑文および粘土板に、「ギミッラーヤ」(もしくはガメラーヤ)と呼ばれる集団が記されている。音声上の類似からこれをキンメリア人に比定されている。キンメリアの騎馬戦士を描いたアッシリアのレリーフ

紀元前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめるが、征服には至らなかった。


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