キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件
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キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件
爆破後のホテル
場所イギリス委任統治下エルサレム
日付1946年7月22日
午後12時37分 (UTC+2)
標的キング・デイヴィッド・ホテル
攻撃手段爆弾
死亡者91
負傷者46
犯人イルグン
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キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件(キング・デイヴィッド・ホテルばくはじけん、ヘブライ語: ????? ???? ???? ???‎, 英語: King David Hotel bombing)は、1946年7月22日に、過激派シオニストである非合法組織イルグンによって引き起こされた爆破事件[1][2][3]。この事件により91名が死亡し46名が負傷した[4]
概要

当時のパレスチナイギリス委任統治領となっており、ホテル(英語版)もイギリス政府の役所、特に委任統治政庁とパレスチナおよびトランスヨルダンイギリス軍司令部として利用されていた[4][5]

1946年6月29日、イギリス政府はユダヤ人武装組織に対応するためにアガサ作戦(英語版)(Operation Agatha)を実行し、ユダヤ機関から文書を押収した。押収された文書にはユダヤ機関に都合の悪いものが含まれており、これを消し去るべくイルグンはホテル爆破を立案し、ホテルに爆弾を仕掛けた。イルグンは、爆弾を仕掛けたのでホテルから退去するようホテルに警告を行った。しかしホテルの従業員はこれを無視し、イギリス当局へ直接警告が伝えられることはなかった[5]。同じ警告を受けたパレスチナ・ポストは不安に思い、ホテルに連絡を入れ、ようやくホテルのマネージャーに警告が伝えられた。マネージャーは爆発の数分前にイギリスの役人にこれを伝えたが、避難は指示しなかった[5]。爆発によってホテルの南側部分の西半分が崩壊し、ホテルに面した道路や隣接した建物にいたものにも死傷者が出た[5]。警告した時間および警告そのものは適切であったか、なぜホテル側は避難を指示しなかったかについては結論が出ていない[5]

この事件はイギリス委任統治時代[注釈 1]において最悪の惨事となり[4][5]、その後の中東戦争期の爆破事件よりも多数の死傷者を出している[6]

1967年にホテルは商業施設として再オープンし[7]、2006年には爆破事件60周年の記念碑が建てられた[8]
背景
爆破の動機アガサ作戦で逮捕されたシオニスト指導者

6月29日、イギリス軍はイスラエルでは「黒い土曜日(Black Saturday)として知られる」アガサ作戦を実行した。この際、ユダヤ機関(英語版)の捜索を行い文書を大量に押収した。中にはユダヤ機関と暴力行為の関与を示すユダヤ機関にとって都合の悪い情報も含まれていた。情報はキング・デイヴィッド・ホテルに持ち帰られ、南側部分にある委任統治政庁のオフィスに保管された[9]。イルグンは押収された文書を葬り去るため、南側部分の爆破を決定した[10]
ホテルの構造庭園側から見たキング・デイヴィッド・ホテル(1934年から1939年の間に撮影されたもの)

1932年に開業したキング・デイヴィッド・ホテルは、エルサレムで最初の近代的で豪華なホテルだった[11]。6階建てでアルファベットの「I」の形をしており、北側部分と南側部分は中心の長い構造でつながっていた。Julian's Wayという大きな道がホテルの西側に沿って走っていた。フランス領事館に面し、ホテルの入り口に通じる未舗装の路地はそこからホテルの北の端まで走っていた。公園となっていた庭園とオリーブの木立が周囲を取り囲んでいた[4]
政府機関としての利用1930年代のロビー

1946年、イギリス委任統治政庁はホテルの最も南側を占有するようになった。軍の本部オフィスも南側部分の最上階と中央部分の3階、4階と最上階を利用していた[12]。軍の電話交換機は地下に設置されていた[4][5]。別館は憲兵とパレスチナ警察の捜査課が使っていた[11]

1938年の後半に客室は接収されたが、これは一時的なものになるはずだった。予定では委任統治政庁と軍総司令部のための庁舎が新たに建設されることとなっていた。しかしこれは第二次世界大戦が勃発すると中止となった。この時点でホテルの客室の3分の2以上は政府や軍のために使用されていた[4]

1946年3月、労働党に所属する国会議員リチャード・クロスマン(英語版)は「私立探偵、シオニストのスパイ、アラブの王族、特派員、その他もろもろ、皆そこでお互いに盗み聞きをしていた。」と述べている[13]。セキュリティの専門家ブルース・ホフマンはホテルについて「イギリスのパレスチナ支配における中枢神経であった」と記している[14]
事件前の攻撃

イルグンの作戦部長アミチャイ・パグリンは射程4マイルの遠隔操作可能な迫撃砲を開発した。イギリス軍はこれを「V3」と呼称した。1945年にこれを用いた警察署攻撃の後、キング・デイヴィッド・ホテルの南にある公園に6門のV3が隠された。3つは政府の印刷所を狙い、他の3つはホテルそのものに狙いを定めた[4]ジョージ6世誕生日に攻撃を行う予定であったが、その計画を知ったハガナーは、ユダヤ機関のテディ・コレックを通じてイギリス政府に警告した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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