キロロリゾート
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キロロリゾートホールディングス株式会社種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
046-0593
北海道余市郡赤井川村常盤128番地1
業種サービス業
法人番号2011001065095
事業内容ホテル
代表者チャイニッド・アッタヤーンサクン(代表取締役)
資本金1億円
純利益▲4億1556万円(2018年12月31日時点)[1]
総資産114億9035万円(2018年12月31日時点)[1]
決算期12月31日
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キロロリゾート(: Kiroro Resort)は、北海道余市郡赤井川村にあるリゾート施設。朝里岳と長峰岳の斜面にあるスキー場をはじめ、自然を生かしたアクティビティなどを楽しむことができる通年型リゾート施設となっている。
概要

赤井川村は、キロロリゾートのオープンは村の過疎化対策に一定の役割を果たし、村の税収が4倍になるなどの大きな影響を与えたとしている[2]

「朝里岳山頂『ニイサの鐘』/キロロリゾート」として「恋人の聖地」に選定されている[3]

親会社であるタイ王国の不動産会社「プロパティ・パーフェクト」は、コンドミニアム「Yu Kiroro」やコンドミニアムとスキー場を結ぶリフトとゴンドラを建設しているほか[4]、「キロロ2020ロードマップ」として新たなホテル、ヴィラやコンドミニアム、娯楽施設などを整備する計画を発表した[5]
名称の由来

「キロロ」はアイヌ語の「心」「力」「才能」などの意味を持つ言葉の響きをヒントに名づけられた[6][7]。なお、「キロロ」と読む地名は浦幌町に「貴老路」、本別町に「嫌侶」があり、それらの名称の由来には「キロ-オ-ル」(kir-o-ru、人が踏み固めた広い道:山田秀三知里真志保説)、「キロロ」(kiroro、勢力:永田方正説)、「ピ-ヲロ」(pi-oro、小石・多い:松浦武四郎説)などの諸説がある[8][9]

女性デュオ「Kiroro」のグループ名は、ボーカルの玉城千春が小学生の頃に地域交流で北海道池田町に行き、耳に残ったアイヌ語「kiroru」(人間が踏み固めた広い路)や「kiroro-an」(強い・健やか・盛ん・大きい・かたくな)の言葉の意味や響きに魅かれたことに由来している[10]。同じネーミングが縁で、1998年(平成10年)にはキロロリゾートとタイアップしたほか、2004年(平成16年)にはキロロリゾートでファンの集いとコンサート「ゆんたくさびら vol.3」を開催している。
沿革
村とヤマハによる開発

赤井川村の産業は農林業を中心としているが、社会経済の変動による人口流出に歯止めがかからないため、1984年(昭和59年)に「赤井川村総合計画」を策定し、後志広域観光の一角として観光に力を入れる施策を立てた[2]。同年、ある企業から村内にスキー場を建設したいという申し出があり、村と共同で「赤井川村森林リゾート開発協議会」を設立したが[6]国有林を活用するため企業側の事業計画に沿った開発をすることができず、1986年(昭和61年)に開発を断念した[6]

そこで、赤井川村はスキー場の開発に関心のある企業を探し、1987年(昭和62年)に日本楽器製造(現在のヤマハ)とともに「赤井川村森林レクリエーション協議会」を設立して朝里岳の西部にある国有林を開発するという計画に着手した[2][6]。1988年(昭和63年)にヤマハは100%出資の子会社「ヤマハ北海道リゾート開発」を設立したほか、当時の林野庁は国有林を活用した開発をする場合は地方自治体が開発主体に加わることを求めていたため、ヤマハ、ヤマハ発動機、ヤマハ北海道リゾート開発に赤井川村も出資した第三セクター「赤井川森林レクリエーション開発公社」(1991年に「キロロ開発公社」と改称)を設立した[2][6]。そして、林野庁が推進していた「森林空間総合利用地域」(ヒューマン・グリーン・プラン)に北海道で初めて認定された[2][6]

1989年(平成元年)に国有保安林の解除手続きが完了すると、赤井川森林レクリエーション開発公社はスキー場の工事を開始した[6]。また、リゾート開発の名称を「キロロ」とすることが決まった[6]。キロロのリゾート開発は、スキー場の「マウンテンエリア」、テニスコートや多目的スポーツ広場の「レクリエーションエリア」、会員制ホテルと飲食・ショッピング街を中心とする「キロロタウン」、約20 km離れた富田地区を開発する「ゴルフエリア」に分けられ、このうちマウンテンエリアとレクリエーションエリアの開発を赤井川森林レクリエーション開発公社が担当し、キロロタウンとゴルフエリアの開発をヤマハ北海道リゾート開発が担当した[6]

1990年(平成2年)に北海道から特定開発行為が許可されると、ゴルフ場の工事が開始され[6]、翌1991年(平成3年)にはキロロタウンの工事が始まった。そして、同年末にスキー場「キロロスノーワールド」、ホテル「マウンテンホテル」と「マウンテンセンター」、多目的スポーツグラウンド「スノーモービルワールド」がオープンした[2][6]。オープン当初の2か月でスキー場には15万人弱の客入りがあり、マウンテンホテルの稼働率も100%近くとなるなど好調なスタートを切った[6]
経営悪化とヤマハの撤退

しかしすでにバブル崩壊が始まっていた時期でもあり、1992年(平成4年)にはヤマハ北海道リゾート開発の親会社であるヤマハの業績悪化に伴う人員整理問題によってキロロのリゾート開発を推進していた川上浩が社長の職を辞し、キロロタウンに予定していたリゾートマンションなどの建設延期を発表した[6]。1993年(平成5年)には川上が兼務していたキロロ開発公社の社長も交代したが、同年にはゴルフ場「キロロゴルフクラブ」、ホテル「ホテルピアノ」や「キロロタウン」がオープンした[6]

ヤマハ北海道リゾート開発は、ホテルやゴルフ場のリゾート会員権の販売で投資の早期回収を見込んでいたが、バブル崩壊により会員権の販売は、投資金額約330億円の半分以下となる約120億円に留まっていた[6]。同社の1993年度(平成5年度)決算では累計損失が42億6,000万円となっており、約150億円の債務超過に陥っていた[6]。そこで、1994年(平成6年)にヤマハ北海道リゾート開発は兄弟会社のヤマハリゾートに営業権を譲渡し、翌年に会社を清算した[6]

一方、キロロ開発公社もオープン以来の経営赤字が続いており、累積赤字が50億円を超えて長短借入金も約150億円まで膨れ上がっていたが、これらは各種施設の工事代金約208億円の支払いで生じたものであった[6]。1995年(平成7年)にキロロ開発公社は臨時株主総会を開き、減資と増資による経営再建案を議決した[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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