キリーノ・クリスティアーニ
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キリーノ・クリスティアーニ

キリーノ・クリスティアーニ(Quirino Cristiani、1896年7月2日 - 1984年8月2日)は、アルゼンチンアニメ監督および漫画家であり、世界最初の長編アニメーション映画2本と、世界最初の音声を備えた長編アニメーション映画1本の制作者であると考えられている。クリスティアーニは世界最初の純粋な切り絵アニメーションの制作者でもある。
経歴

1896年7月2日、クリスティアーニはイタリアサンタ・ジュレッタで生まれた。1900年にクリスティアーニ一家はアルゼンチンのブエノスアイレスに引越し、キリーノはこの南米の大都市で先進的かつ左翼的な政治思想を吸収しながら少年時代を過ごした。キリーノは自分自身はまず第一にポルテーニョ(ブエノスアイレス市民の自称。「港っ子」の意味)であり、次にアルゼンチン人であると考えるようになった。

十代の頃にクリスティアーニは絵画に情熱を傾けるようになり、その情熱は彼をして美術学校の基礎講座を受講せしめ、市の新聞で政治風刺漫画を発表させる事になった。やがて、彼は自分の風刺のまたとない対象を見出した。

1916年の国民選挙により、36年に及ぶ保守党の支配は平和裡に終りを告げ、大統領となったイポリト・イリゴージェン率いる急進党が取って代わった。イリゴージェンは下層中産階級、特にブエノスアイレスのそれを優遇し、同地に前例の無い政治的自由を与えた。ブエノスアイレス市はその返礼として、イリゴージェンの社会不適格性や、政治における保守党の腐敗が急進党の腐敗に取って代わっただけであることや、ドイツ贔屓のアルゼンチン軍内で評判の悪かった、アルゼンチンを第一次世界大戦における中立国としたイリゴージェンの決断を嘲笑した。やがてイリゴージェンには、彼の身だしなみの悪さを揶揄する「ペルード(もじゃもじゃ頭)」のあだ名が付けられた(「ペルード」には俗語で「うすのろ」の意味もある)。

ブエノスアイレス市に住んでいた別のイタリア移民フェデリコ・ヴァッレはかつてヨーロッパの撮影技師にして映画監督であり(ヴァッレは1909年のウィルバー・ライトのローマ訪問を利用して、世界初の空中撮影を行っていた)、アルゼンチンではニュース映画のプロデューサーとなっていた。ヴァッレ個人は政治に無関心だったが、彼はポルテーニョ達はそうでない事を知っていた。ヴァッレは20歳のクリスティアーニを在野から雇い入れ、エミール・コールの Les Allumettes animees (マッチ棒アニメーション映画、1908年)を教材にアニメーション映画の技術を教え、その後は彼の自由に任せた。1916年が終わる前に発表されたヴァッレのニュース映画 Actualides Valle には、キリーノ・クリスティアーニによる一分間アニメーション映画『ブエノスアイレス地方への内政干渉』 La Intervencion en la provencia de Buenos Aires が収録されていた。このアニメーション映画は、不正を行ったブエノスアイレス州知事マルセリーノ・ウガルテのイリゴージェンによる追放を扱った作品であった。この作品ではアニメーション手法として、クリスティアーニの経歴を通じて彼が用い続けたボール紙の切り絵アニメーションが使用されていた。クリスティアーニがアニメで使用した切り絵

この短編アニメーションは非常に成功し、ヴァッレは新たな企画を発表した。それは、この新人アニメーターによるイリゴージェン大統領を主題とした世界初の長編アニメーション映画の制作であった。この作品の公開を行う一連の映画館の持ち主フランチーニが資金を提供した。クリスティアーニはキャラクターデザインを新聞漫画家のエル・モノことディオヘネス・タボルダに依頼した。タボルダがほとんど関与しなかった一方で、ほとんどの原画作業をクリスティアーニが担当し、大変な努力の末にクリスティアーニは目的を達成した。5万8000枚の動画(秒間14フレームで1時間10分)からなる『使徒』 El Apostol は、1917年11月9日に初上映された。

この映画はイリゴージェン大統領が不品行と腐敗に満ちたブエノスアイレスを清めようと、ジュピターの雷を求めて天上界に昇るという内容の風刺作品であった。最後にはブエノスアイレス市が焼き尽くされる。この作品は好評を博したが、評価のほとんどはプロデューサーのヴァッレに与えられた物で、それ以外はタボルダに向けられた物であった。

1918年に、アルゼンチンのドイツ軍指揮官フォン・ルクスブルク男爵はアルゼンチン船舶を沈没させ、これを三国協商諸国の仕業に見せかける事でアルゼンチンを第一次世界大戦でドイツ側に引き込もうと考えた。事件の生存者の証言により、ほとんどの者にはその真相は明らかに見えたが、ドイツとの同盟を恐れたのと同様に、アルゼンチンがドイツの敵側として大戦に引き込まれる事を恐れたイリゴージェンは、政治的決断を避けた。

クリスティアーニはこの事件を全くの日和見主義と見なし、新たなプロデューサーと組んで世界で二番目の長編アニメーション映画『痕跡も残さず』 Sin dejar rastros を制作した。この映画の題はルクスブルク男爵が下したと察せられるドイツ軍のUボート艦長への撃沈命令を当てこすった物であった。イリゴージェン大統領は公開翌日に外務省にこのフィルムの没収を命じざるを得なかった。この行為は、急進党の大統領がその弾圧政策に関しては、自ら取って代わった保守党の大統領とほとんど変わらない事を示す物であった。その一方でクリスティアーニは投獄される事もなく、次の数年間を新聞紙上の政治風刺漫画の執筆をして過ごした。この時期に、『使徒』において炎の効果を担当したアンドレス・デュカウによる2本のアニメーション映画がアルゼンチンで制作されている。

成人した家族の援助により、クリスティアーニは広告会社 Publi-Cinema を設立し、宣伝用の短編映画の制作に乗り出した。これらのアニメーション映画の上映のために、クリスティアーニは映画館のない貧民街を訪問し、彼のアニメーション映画を差し挟んだチャップリンの短編やその他の映画の有料公開上映を行った。この宣伝は警察から「治安妨害と交通遮断」として禁止を受ける程に成功した。

1922年に“ペルード”大統領の6年間の任期が終わり、別の急進派大統領マルセロ・トルクアト・デ・アルベアールが当選した。アルベアール大統領時代に、クリスティアーニは娯楽用アニメーション短編の制作に着手した。


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