キリンビール広島工場
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キリンビール広島工場(キリンビールひろしまこうじょう)は、かつて広島県安芸郡府中町に存在した、キリンビール工場。後身のキリンビアパーク広島についても、この項目で取り上げる。
概要

キリンビールの西日本の製造拠点として、1938年(昭和13年)から1998年(平成10年)まで約60年間存在した。主要製造工場でなくなった後も、1998年(平成10年)から2010年(平成22年)まで、小規模なビールの醸造は継続された。
歴史
キリンビール広島工場時代

1935年(昭和10年)に、キリンビールは九州進出を計画していたが、横浜山手工場、神崎工場(のちの尼崎工場、現在は別の場所に移転して神戸工場)、仙台工場(現在は別の場所に移転して継続)に次ぐ全国4番目の工場として、1936年(昭和11年)6月1日に広島県安芸郡府中村(1937年(昭和12年)に府中村は町制を施行して府中町になった)進出を決定した[1]

理由として、福岡県に他社の工場が既に進出していた事、熊本県八代地区は、良質な水は確保できるが、南過ぎるので九州進出は見送られた事[注釈 1]。代わりの市場として、当時、軍都であった広島市呉市が共に約20万人の人口を持ち、戦争の進捗で近いうちに周辺の人口が70万人を超える事が予想され、終戦までに実際に100万人を超えた事で、有望な消費地が近くにあったこと[2]太田川水系の良質な水が豊富である事[3]。キリンビールとしては広島市への進出を希望していたが[4]、府中村が広島市への編入見込があったことより[5]、府中村進出となった。

工場が出来る前は農地だった土地に[6]1936年(昭和11年)11月20日に地鎮祭を行い[7]、同年12月1日から工事を開始[8]1937年(昭和12年)6月15日に上棟式[9]1938年(昭和13年)3月1日に当初の予定より3ヶ月遅れで完工した[10][注釈 2]。工場の完成当時はクリーム色に塗られていた[11]

1938年(昭和13年)3月14日にビールの醸造を開始。同年4月28日には、清涼飲料水工場が完成。同年5月にはビールの瓶詰を開始[12]。同年6月4日に開業式を行った[13]

関東大震災による被災から1926年(大正15年)に復興した横浜工場以来10数年ぶりに建設された[12]、開業当時の広島工場は、当時としては東洋最大の規模だった[13]

水に関しては、ビールの醸造に関しては太田川水系の水を使用[14]。その他の水に関しては、当初は府中・温品・矢賀、そして構内に掘った井戸でまかなっていたが[15]、塩害・干ばつなどより、1950年(昭和25年)5月15日から安芸水道[注釈 3]の利用を開始した。

当時広島工場と共に、横浜製壜工場に次ぐ製瓶工場として、山口県都濃郡富田町(閉鎖時の市町村名は新南陽市、現在の周南市)に富田製壜工場も開設された。製瓶工場についても、広島工場に設けられる話もあったが、瓶の原料の珪砂搬入には、臨海部が望ましい理由から、富田町に設けられた。元々塩田だった土地に、1938年(昭和13年)4月に竣工、翌5月より操業開始した[16][注釈 4]

広島工場の開設と同時期に、広島本通商店街にキリンビヤホール広島が開設され[17]1990年(平成2年)頃まで存在。現在は、広島パルコ本館になっている。

第二次世界大戦中も、ビールの醸造および清涼飲料水の製造は継続されたが[18]、清涼飲料水は1942年(昭和17年)1月と1943年(昭和18年)2月および3月の一時的な製造中止後、1944年(昭和19年)3月以降は製造を中止した[19]。ビールも減産および、材料のホップの確保が困難になった事で味が淡泊になったと言われた[20]。そして、1945年(昭和20年)4月に軍部の指令で、飛行機などの燃料として使われるアルコール生産の指示を受けたが、困難である事からトラックに使われるアルコールの製造指示に変更された上で、同年6月より、飲料用アルコールの仕込みを中止。産業用アルコール生産に転換した[21]。終戦により、実際に燃料として使われる事は無かったが、完成したアルコールを試飲して味が良好だったため、『更正酒』として主に社員に配布。物々交換の品として活用された[22]。また、1943年(昭和18年)には、空爆対策として偽装塗装を行った[11]

1945年(昭和20年)8月6日8時15分の広島市への原子爆弾投下で、コンクリート造および鉄骨造の建物に関しては窓・出入口・壁・屋根などの破損。木造の建物は、全壊・半壊・傾斜など、主に爆風による被害を受けた。火災被害に関して無かったことで、施設に関しては比較的軽微な被害で済んだ[23][注釈 5]。ただ、人的被害に関しては、従業員に関しては、死者5名・重軽傷者若干名、従業員家族の死者が55名出た[25][注釈 6]

戦後は、神崎工場から運んできた酵母で1945年(昭和20年)12月より仕込みを再開[26]1946年(昭和21年)6月からは進駐軍用のビールの製造を開始し、進駐軍の常駐が始まった。清涼飲料水の工場もオーストラリア部隊により接収。サイダーの製造が開始された[27][注釈 7]1947年(昭和22年)8月に復旧工事が完了した[11]。接収は、1952年(昭和27年)7月28日まで続けられ返還されたが、継続利用の要請よりさらに3ヶ月貸与された[28]

ビール自体の需要の減少と製造制限より、戦後しばらくは副業として、ジアスターゼの製造、製氷事業、貸金庫事業などが行われた[29]

1949年(昭和24年)には、原材料事情の改善より増産が認められ、以後製造量は増えていった[30]

1950年(昭和25年)以降、拡張・増設工事は本格化[31]


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