キリンカップサッカー
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キリンチャレンジカップ」とは異なります。

キリンカップサッカー
開始年1978年
主催 日本サッカー協会
参加チーム数4
前回優勝 チュニジア (1回目)
最多優勝 日本 (11回)
サイト公式ウェブサイト
キリンカップサッカー2022
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キリンカップサッカー(: KIRIN CUP SOCCER)は、日本4月から6月ごろに開催されているサッカーの国際親善大会である。日本サッカー協会(JFA)が主催し、キリングループが特別協賛する[1]サッカー日本代表の進歩に大きな功績を残した大会である[2]
歴史
創設経緯2007年大会、モンテネグロ対コロンビア戦

1976年日本サッカー協会 (JFA) の実務のトップである専務理事に就任した長沼健は「我々はもっとアジアとの交流を深めていく必要がある。そのためにも、欧州南米の強豪クラブを招き、アジア諸国の代表も加えたトーナメントが開けないだろうか」などと構想した[2][3]。当時のJFAの財政は苦しく、大掛かりなイベントの開催を懸念する声も大きかったが、長沼は停滞する流れを変えようとこれを強行[2]。自身が監督として日本代表(この時代の名称は全日本)を率い、1964年東京オリンピック1968年メキシコ・オリンピックと偉業を達成しながら、その後は徐々に日本代表の成績も下降線をたどっていた[2]。これに伴いサッカー人気も同様に下降線を示し、日本サッカーリーグ(JSL)の観客数もジリ貧の道をたどっており、何とかしなければならないという使命感は誰よりも強かった[2]。こうして1978年5月に日本代表の強化を目的として「ジャパンカップ」という大会名で創設された[2][3][4][5][6]。日本では初めての本格的なサッカー国際大会だった[7][8]。当時の日本代表の主力は永井良和金田喜稔西野朗加藤久らで監督は二宮寛[9]。第一回大会は、前年バロンドールを受賞したアラン・シモンセンユップ・ハインケスヘルベルト・ヴィマーらを擁し[5]ブンデスリーガ三連覇中のボルシアMGに、日本人初の欧州プロプレーヤー奥寺康彦が所属していたケルンの凱旋試合もあり[5][9]、ケルンは他にGKハラルト・シューマッハー、監督は名将・ヘネス・バイスバイラーと話題性も豊富だったが[2]、大会全体でも15試合で16万2,500人、有料入場者は8万416人で1試合平均は5,000人強と赤字約6,000万円を計上した[2][4]。第2回は前年のワールドカップで初優勝したアルゼンチン代表リカルド・ビジャオズワルド・アルディレスらを擁するトッテナム・ホットスパーFCジャンカルロ・アントニョーニ率いるフィオレンティーナも来日したが[5][9]、興行はさらに悲惨な結果となり[2]、大会は赤字続きであった[4][10]
キリンの協賛

そこで長沼が、まだ原宿岸記念体育会館の小さな一室にあったサッカー協会の部屋の窓から、線路を挟んで目と鼻の先にかつて本社のあったキリンビールを眺め「ああいう大きな会社に支援をお願いできないものか」と思案し代理店なしで、人伝に同社とアポを取り[4]岡野俊一郎と共にキリンビールの小西秀次社長(当時)に直談判し、冠スポンサーを実現させた[4][9][10][11][12]。今日続くキリンビールのサッカー日本代表オフィシャルスポンサーはこのとき始まる[3][11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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