キリル文字
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Unicodeのブロックについては「キリル文字 (Unicodeのブロック)」をご覧ください。

キリル文字

キリル文字による「主の祈り」(ルーマニア語)。1850年代
類型:アルファベット
言語:使用国
 ベラルーシ
 ボスニア・ヘルツェゴビナ (主に国内のセルビア人居住地域)
 ブルガリア
 キルギス
 北マケドニア
 ロシア
 ウクライナ
 モンテネグロ (ラテン文字も使用)
 セルビア (ラテン文字も使用)
 タジキスタン (ラテン文字も使用)
 モンゴル (モンゴル文字も使用)
 カザフスタン (2031年まで)
時期:初期キリル文字の初出は940年頃
姉妹の文字体系:ラテン文字
コプト文字
Unicode範囲:U+0400-U+04FF
U+0500-U+052F
U+2DE0-U+2DFF
U+A640-U+A69F
ISO 15924 コード:.mw-parser-output .monospaced{font-family:monospace,monospace}Cyrl
注意: このページはUnicodeで書かれた国際音声記号 (IPA) を含む場合があります。
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音素文字の歴史


青銅器時代中期-原シナイ
前19-15世紀

ウガリット 前15世紀


原カナン 前14世紀

フェニキア 前11世紀

古ヘブライ 前10世紀

サマリア 前6世紀


アラム 前9世紀

ブラーフミー 前6世紀
インド系

チベット 7世紀

クメール 7世紀

ジャワ 9世紀
他多数


ヘブライ 前3世紀

シリア 前2世紀

ナバテア 前2世紀

アラビア 4世紀

ペルシア 7世紀

ウルドゥ 11世紀

ターナ 18世紀



パフラヴィ 前2世紀

アヴェスタ 4世紀


ソグド

突厥 5世紀

ウイグル 8世紀

(契丹小字 10世紀)

(女真小字 12世紀)


モンゴル 13世紀

満洲 16世紀

シベ 20世紀


トド 17世紀

ワキンダラー 20世紀




ギリシア 前9世紀

エトルリア 前8世紀

ラテン 前7世紀

ルーン 2世紀

オガム 4世紀

ゴート 4世紀



コプト 300年

グルジア 4世紀

アルメニア 405年

グラゴル 862年

キリル 10世紀



イベリア 前6世紀


南アラビア 前9世紀

ゲエズ 前5–6世紀


メロエ 前3世紀
カナダ先住民 1840年
注音 1913年

キリル文字(キリルもじ、ブルガリア語: Кирилица、: Кириллица、: Cyrillic)は、スラヴ語派などを表記するのに用いられる表音文字である。

ギリシア文字に基づいてギリシア人キュリロス(Kyrillos)(ロシア式呼び方では「キリル」)が9世紀に作ったグラゴル文字をもとに、(その弟子たちが)10世紀ブルガリアで作った文字である。(→#歴史

キリル文字はロシア語ベラルーシ語ウクライナ語ブルガリア語セルビア語カザフ語キルギス語など多くの言語で使用されており、文字集合はそれぞれ微妙に異なる。

東アジア諸国の伝統的な文字コードにおいてはCJK文字と同じマルチバイトコードポイントを持ち、CJK文字同様の全角文字として扱われていたが、Unicode制定の際にラテン文字と異なり、東ヨーロッパ諸国の文字コードにおいて1バイトで表現されるキリル文字と同一の文字とされたため、Unicodeの仕様上は全角と半角の区別を持たずにフォントによって文字幅が大きく異なっている。この事情はギリシア文字と同様である。
歴史
前史・グラゴル文字の発明

グラゴル文字は、スラヴ人に布教を行ったキリスト教東方教会の総本山、正教会宣教師であるキュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)が発明した文字である。

862年、西スラヴ人の王国であるモラヴィア王国ラスチスラフ王が東ローマ帝国にキリスト教の伝道師派遣を要請し、東ローマ皇帝はキリルとメフォディの兄弟をモラビア王国に派遣した。このときキリルとメフォディ兄弟はスラヴ人に正教を布教するため、スラブ語を表記するための文字を考案した。これがグラゴル文字で、このグラゴル文字がのちにキリル文字に発展した。

862年から863年ごろに考案されたグラゴル文字は史上初のスラヴ語表記の文字であり、スラブ世界で広く使用されるようになった。しかし、キリルとメフォディ兄弟の布教はキリスト教西方教会であるローマ教会から妨害され、885年のメフォディの死後、キリルとメフォディ兄弟の弟子であるオフリドのクリメントらは弾圧から逃れてブルガリア帝国へ移り、ボリス1世に庇護されながら布教活動を続けた[1]


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