キリシタン
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キリシタン(吉利支丹、切支丹、吉利施端、吉悧翅段、截支丹、吉利翅丹、ポルトガル語: Cristao, 古いポルトガル語: Christan)は、日本人のキリスト教徒を指す。戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた日本語(古語口語)である。

江戸時代以降の当て字である『切死丹』『鬼理死丹』には侮蔑の意味が込められており、蔑称として使われてきた。
概要

元々はポルトガル語で「キリスト教徒」を指す言葉であり、英語の「クリスチャン」(Christian)と同じ意味である。本来のポルトガル語ではキリスト教徒全般を指すが、日本語では戦国時代以後、日本に伝来したキリスト教カトリック)の信者、伝道者またその働きについてを指す。キリスト教の禁令はローマカトリック教会に限定されていたわけではなく[注釈 1]平戸市のオランダ倉庫はキリスト教の年号(1639年)を使用したことを理由に破壊され[2]、オランダ人墓地も同時期に破却、死体は掘り返され海に投棄された[3]。1654年、ガブリエル・ハッパルトは長崎での陸上埋葬の嘆願をしたが、キリスト教式の葬儀や埋葬は認められず、日本式で行うことを条件に埋葬が許可された[4][5][6][注釈 2]

オランダ人の記録によると、徳川家光はオランダ人の宗教がポルトガル人の宗教と類似したものであると理解しており、オランダ人を長崎の出島に監禁した理由の一つにキリスト教の信仰があったとしている[10][注釈 3][注釈 4]

1673年、イギリス船リターン号が来航し通商再開を求めたが、イギリス人のキリスト教禁令遵守を疑った幕府は拒否した[17][注釈 5]

エンゲルベルト・ケンペル1690年代出島において、オランダ人が日本人による様々な辱めや不名誉に耐え忍ばなければならなかったと述べている。キリストの名を口にすること、宗教に関連した楽曲を歌うこと、祈ること、祝祭日を祝うこと、十字架を持ち歩くことは禁じられていた[18][注釈 6]

日本の漢字では、“吉利支丹”などと書く。江戸時代以降は禁教令踏み絵による弾圧に伴い、侮蔑を込めて“切死丹”、“鬼理死丹”という当て字も使われるようになった。5代将軍徳川綱吉の名に含まれる“吉”の字をはばかって、綱吉治世以降は“吉利支丹”という字は公には使われなくなり、“切支丹”という表記が一般となった。

現在の日本では、「キリシタン」という言葉は「キリシタン大名」や「隠れキリシタン」など、日本の歴史用語として使用されており、現代日本のキリスト教徒を指す場合は「クリスチャン」を用いる。

また、カトリック・プロテスタントその他を問わず日本のキリスト教徒が、過去も含めて「キリシタン」と自称することもない。特にカトリック信徒が日本一多い長崎県カトリック長崎大司教区を擁する)では、かつての禁教・迫害などの辛い歴史を連想させるため、この呼称を嫌うカトリック信徒も少なくない。

1605年には、日本のキリシタン信徒は75万人にもなったといわれている。詳細は「日本のキリスト教史」および「日本におけるカトリック教会」を参照
国内外の評価「聖人暦(ルター派)(英語版)」、「聖人暦(英国国教会)(英語版)」、および「聖人暦(聖公会)(英語版)」も参照

英国国教会豊臣秀吉が26人の殉教者を処刑した日の翌日である2月6日を1959年に記念日とした[21]アメリカ福音ルター派教会でも、2月5日を記念日としている。英国国教会[22]ルーテル教会[23]フランシスコ・ザビエルを崇敬し、命日の12月3日を記念日としている。しかしながら日本国内では、キリシタンと一言で表現してしまうとカトリックとプロテスタント(ルター派やカルヴァン派、英国国教会など)との区別がされず、また対抗宗教改革のために勢力を増強させたいカトリックが布教を洗脳的な活動であり、16世紀末にポルトガル、スペインの王を兼任していたフェリペ2世による現フィリピン支配やサン=バルテルミの大虐殺を支持するなどカトリックの歴史上の暗黒面を覆い隠してしまう側面もあり、一部の識者の間ではキリスト教をカトリックとプロテスタントの区別をしない表記や考え方に対する批判もある。
注釈^ 江戸幕府プロテスタントとカトリックの教義は同じもので、教派の違いは重要でないとし、オランダ人もキリシタンであると認識していた[1]
^ 現存する最古の西洋人墓碑は江戸時代後期、元出島オランダ商館長ヘンドリック・ホットフリート・デュルコープ(1736?1778)のものである。オランダの日誌によるとキリスト教式の葬儀が異例ながら許された[7][8]。墓碑は1779年1月4日に設置された[9]
^ 家光はキリスト教への恐怖からオランダ人を出島に移したが、外国との貿易に付随する政治的な利害関係を排除するためでもあった[10]
^ 幕府のオランダ人への警戒感は秀忠の時代に遡る。イギリス商館長リチャード・コックスは着任早々、オランダ人がイギリス人と称して海賊行為を行い、イギリス人の悪評が立っていることに衝撃を受けたという[11]。オランダ人に対抗するためにリチャード・コックスはオランダがスペイン王国の一部であるためオランダ人は反逆者であり、いずれ日本国を滅ぼすかもしれないと幕府に訴えた。またオランダは英国のおかげで独立しており、オランダは英国の属国だとの風評を立てた[12]。オランダ商館長ヤックス・スペックスもコックスと同様に、オランダ総督をオランダ国王として虚偽の呼称を使用し、オランダ国王がキリスト教王国の中でも最も偉大な王であり、全ての王を支配しているとの風評を広げようとした。コックスはこれを逆手にとり、自国がオランダよりはるかに優れていることを大名や役人の前で説明し、これを信じた島津家久から、オランダ人でなくイギリス人に薩摩での貿易を許可するとの言質をとることに成功した[13]1616年の二港制限令によってイギリス人とオランダ人を長崎と平戸に閉じ込めることが決定された。勅令はコックスが江戸にいる間のことだったが、これはコックスの発言が彼が意図した以上に幕府に警戒感を抱かせたことが発端となった可能性が指摘されている[14]。コックスは秀忠に謁見しようとしたが、家康宛ての書状であるとの表向きの理由で拒否された[15]。さらに宣教師も追い打ちをかけて、連邦共和国を巡ってスペインが困っているのは、イギリスの支援があるからであり、イギリス人が正統な国王に対して対抗する手段を与えたとの有害な事実を広めた[16]
^ 1792年10月に来航したアダム・ラックスマンの遣日使節まで、ヨーロッパ諸国の使節が日本を訪れることはなかった[17]
^ 島原の乱において幕府の軍事支援要請にオランダ人は応じた。そのことでオランダはイギリスを含むヨーロッパ諸国から強く非難されたという[19]ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリはオランダ人が行っていた踏み絵をイギリス人が拒否したと記述しているが[20]、オランダ人が踏み絵をしたという一次資料は残されていない[19]


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