キリキア
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出典検索?: "キリキア" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年6月)
キリキア地方。13世紀から14世紀、キリキア・アルメニア王国が存在した時期のもの

キリキア (Cilicia) は、トルコ南部にある、地中海に面した一地域の名前。地中海をへだててキプロスと向かい合い、また南東部にシリアの位置する地域である。北は、世界遺産で有名なカッパドキアと接している。キリキアは海岸沿いのチュクロワ平野と、西部のトロス山脈(タウルス山脈)をはじめとして平野部をとりかこむように広がる山地の部分とで成り立つ。聖パウロの生誕地であるタルスス(タルソス)の町があることで知られる。現在はトルコ第4の都市アダナがある。

アナトリア半島の東部および南部は険しい山地や高原が広がっているため、平野部のあるキリキアは古くから小アジアやヨーロッパと中東を結ぶ交通・貿易・戦略の要衝であった。トロス山脈には細く険しい道があり、とくに交通の重要地として「キリキアの門」と呼ばれた。ヨーロッパ中東を結ぶ中継地であるため、地政学的に言う緩衝地帯であり、古代から何度も支配者が入れ替わった地域でもある。
地名の語源

ギリシャ神話の人物キリクス (Κ?λιξ) からきている。また、フェニキアアッシリアの王子キリック(キラック)からきているともいわれる。
地理

冒頭で述べたように、この地域はチュクロワ平野(チュクロバ平野)と、それを囲むトロス山脈などの山脈部でできている。そのため、古代ギリシャの歴史家ストラボンはこの地域を「山地のキリキア」 (Cilicia Trachea) と「平地のキリキア」 (Cilicia Pedias) とに分けて考えた。

とくに平野部は、大部分が高原や山地で構成されるトルコの領土のなかで数少ない平地であり、トルコのなかでも最も活発な地域の1つである。小麦などが栽培されており、トルコ第4の都市アダナがあって他の産業も盛んである。

現在のこの地域における行政区画は地中海地方 (トルコ)を参照のこと。
歴史
古代

キリキアはアケメネス朝ペルシアの建国者キュロス2世によって紀元前6世紀に征服され、それから紀元前334年から始まるマケドニア王国アレクサンドロス3世によるペルシアの征服までペルシア領であった。アレクサンドロス3世が東方に遠征する途中、紀元前333年にアレクサンドロス一行はキリキアに立ち寄った。そしてこの年にペルシアのダレイオス3世と戦って勝利し(イッソスの戦い)、その3年後にダレイオス3世の死とともにアケメネス朝は滅亡する。しかし、まもなく紀元前323年にアレクサンドロスが急逝すると、その後継をめぐって激しい争いが繰り広げられる(ディアドコイ戦争)。

争いの末キリキアはセレウコス朝シリアの支配域となる。セレウコス朝の初代王セレウコス1世は、このキリキアの西部沿岸地にセレウキア(現トルコ・シリフケ)という名の街を建設する。しかししばらく支配は安定したものではなく、まもなくプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス2世との領土争いが起き、キリキアを含むアナトリア半島の南岸部を失う(第1次シリア戦争など)。しかしその後セレウコス朝のアンティオコス2世はマケドニアのアンティゴノス2世と同盟を結んでエジプト戦いを挑み、小アジア海岸地域の奪還に成功する(第2次シリア戦争紀元前260年 - 紀元前253年)。その後シリアは領土拡大に動き、小アジアの西・南沿岸部をすべて制圧する。しかし、当時シリアはハンニバルを亡命者として受け入れていたためにローマと対立し、ついにはローマと戦って敗れてしまう(前192年?前189年マグネシアの戦い)。この敗戦による賠償でシリアはトロス山脈西部より以西をすべて失い、キリキア地方西部はロドス領となる。

これを境にセレウコス朝は衰退に向かう。前1世紀には東方のパルティア(イラン)に圧されすっかり弱体化したシリアは、そのころ力をつけてきたカフカス大アルメニア王国により壊滅的な被害を受けることになる。アルメニアのティグラネス2世(在位前95年?前55年)はそれまでパルティアに奪われていたアルメニア台地(現在のトルコ東部)を奪還した勢いでついでにキリキアとシリア本土をも制圧した。ローマ帝国のキリキア属州

これでキリキアはアルメニアのものになるかと思われた。しかし、当時アルメニアはローマと敵対関係にあった隣国ポントス王国ミトリダテス6世(ミトラダテス6世)をかくまっていたため、ローマの将軍ルクッルス(ルクルス)に攻められアルメニアの街をかなり破壊された(前69年)。しかしそれでもティグラネス2世はローマに抵抗する姿勢を見せたため、アルメニアは前66年ポンペイウス率いるローマ軍に攻撃される。これによりティグラネス2世は、ローマがすでにアルメニアの敵対国パルティアと同盟を組んでいたことなども考慮した上で、ローマにミトリダテス6世の身柄と賠償金を引き渡し、そしてキリキアを含む彼の制圧した地域をすべて手放して降伏する。これによってキリキアはローマの属州に加えられ、タルソスが州都に指定される(ついでにポンペイウスはシリアに出向いてセレウコス朝を滅ぼしシリアも属州にする)。

その後、長い間キリキアはローマ帝国、および4世紀末以降ローマ帝国の東半分の領土を受け継いだ東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土となる。紀元前後には州都タルソスでキリスト教の伝道師となる聖パウロが誕生する。その後セレウコス朝シリアの首都でありその後シリア属州の州都となったアンティオキア(現トルコ・アンタキヤ)がキリスト教布教の拠点となり、隣のキリキアもキリスト教の強い影響を受けるようになる。「登塔者シメオン」も参照
中世

しばらくは東ローマ帝国の領土として安定していたが、7世紀イスラム教が興ると、その後アラブ人は多方面に征服活動(ジハード)を進めていく。その一環としてアラブ人はシリア方面で636年ヤルムークの戦いで東ローマ帝国軍を破り、その後キリキアはシリアとともにイスラム帝国領となる。その後イスラムの手によってアダナの街が造られるようになる。

当時はコンスタンティノープルまで攻めあがってくるイスラム帝国をここでなんとか撃退して平安を保った東ローマ帝国だったが、徐々に国力が回復していき9世紀になり東ローマ帝国の王朝がマケドニア朝になると、963年に即位したニケフォロス2世フォカスは、当時カリフによってキリキアの統治を認められていたアラブ系のハムダーン朝と戦い、キリキアやアンティオキアを含むシリアの一部を奪還する。


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