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キリキアのシンプリキオス(希: Σιμπλ?κιο? ? Κ?λιξ、490年 ? 560年)は、古代末期キリキア出身の哲学者。アンモニオス・ヘルメイウ[1]とダマスキオス[2]の弟子。古代最後のネオ・プラトニストの一人であり、6世紀初めユスティニアヌスに迫害された非キリスト教哲学者の一人。アリストテレスの著作に関して註釈を行った。彼の著作は独自の作品ではなく、アリストテレスや他の著作家に関しての註釈であり、その知的で莫大な知識は、彼を非キリスト教世界での最後の偉大な古代哲学者としている。彼の著作は、彼がそうしなければ失われていたであろう初期哲学者の多くの情報を保存している。 シンプリキオスの生涯についてはあまり知られていない。アガティアスは、シンプリキオスがキリキアで生まれたと伝えている。シンプリキオス自身が述べるところでは、アレクサンドリアではアンモニオスに、アテナイではダマスキオスによって教育を受けた。そして、プロクロスは「わたしの師たちの師」であり、「わたしが生まれるより少し前に“プラトンの後継者(ディアドーコス)”であった」と伝えている。プロクロスの影響は大きく、「プロクロスの最も優れた弟子であったアスクレピオドロスと、わたしたちのダマスキオス以外の者たちはすべてプロクロスの教義に従った。アスクレピオドロスは自分の才能のゆえに、ダマスキオスは自分の作品の愛とイアンブリコスへの共感のゆえに、プロクロスの教義を再考することを恐れなかった」と述べた。 5世紀に出されたヘレニズム宗教に対するローマ帝国の勅令は、個人的な迫害からの法的保護を与えていた。しかし528年に皇帝ユスティニアヌスは非キリスト教徒を政府の役職から追放するように命じ。いくつかの例では財産没収や死刑もあり、3か月以内にキリスト教に改宗しなければ帝国から追放されることが明記されていた。加えて、アテネにおいて哲学と法学を教えることを禁止した[3]。おそらくプロクロスの時代には千金以上があるとされたアカデメイアの財産も押収されたであろう。少なくともユスティニアヌスは以前の皇帝が医師や自由七科の教師らに割り当てられていた給付金を取り上げ、市民たちが劇場や公共の目的のために提供した基金を没収した[4]。 シンプリキオス、エウラミオス、プリスキアノスなどの七人の哲学者たちが、アカデメイア最後の学頭であるダマスキオスを代表にして、531年に即位したサーサーン朝皇帝ホスロー1世の宮廷に保護を求めることを決めた。533年にはホスロー1世とユスティニアヌスとの間に結ばれた和平条約において、哲学者たちが危害を受けることなく戻り、自分達の儀礼を実践することが許可されると規定が盛り込まれ、彼等はローマ帝国に帰還した。 シンプリキオスがどこに住んで、教授したかということはほとんど知られていない。著作するだけではなく、実際に教授していたことは『自然学註解』で聞き手への呼びかけや、『カテゴリー論注解』の表題からも証明されている。彼はアレクサンドリアでアンモニオスで教育され、アテネでダマスキオスの弟子となった。おそらく、その後彼が住居としたのはこのどちらかの都市であったであろう。これらの都市とコンスタンティノープル以外に彼が必要とした書籍の収集は困難であり、また彼がコンスタンティノープルに行った可能性は低いからである。彼自身の経歴、特にペルシャへの移住に関して確かな記述は著作の中に見当たらない。ただエピクテートスの『要綱』についての論考の最後にのみ、暴君の抑圧下にあって見いだされた慰めについて、エピクテートスに感謝を表している。これは上記の迫害期、またはその直後に書かれたことを示唆している可能性がある。 キリスト教徒の哲学者ピロポノスとシンプリキオスの、世界が時間内において創造されたかについての論争もよく知られている。しかし、彼等が個人的に会ったことはなかった。「会ったこともないこの男について、わたしは敵意を感じたことはない」 現存するシンプリキオスの著作は、アリストテレスについての『天界論注解』『自然学註解』『カテゴリー論注解』、エピクテートスついての『要綱註解』がある。また彼の名で伝わっているアリストテレス『霊魂論』の註解もあるが、文体的に劣っており、またシンプリキオスが常用する幅広い歴史的情報が欠けている。それはリュディアのプリキアノスによって書かれたことが示唆されているが[5]、ある学者は真作と考えている。 『天界論注解』は『自然学註解』の前に書かれたもので、アレクサンドリア滞在中にアンモニオスによって行われた天文観測に言及しており、おそらくアレクサンドリアでは書かれていない。ダマスキオスの死後、つまりペルシャよりの帰国の後に、『自然学註解』を書いた。
生涯
著作