キラー・トーア・カマタ
1979年
プロフィール
リングネームキラー・トーア・カマタ
トーア・カマタ
ドクター・モト
キング・カマタ
本名マクロナルド・カマカ
ニックネーム流血大王
身長183cm
体重140kg(全盛時)
誕生日1937年3月9日
死亡日 (2007-07-23) 2007年7月23日(70歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ハワイ州
ホノルル郡ホノルル
スポーツ歴レスリング[1]
デビュー1959年
引退1987年
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キラー・トーア・カマタ("Killer" Tor Kamata、本名:McRonald Kelii Kamaka[2]、1937年3月9日 - 2007年7月23日[3])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州ホノルル出身。カナカ人の血を引くともされた[4]が、カナカ人はミクロネシア系であり、カマタはポリネシア系のハワイアンである。
選手時代は悪役レスラーとして活躍し、流血大王の異名で呼ばれた[4]。実弟もプロレスラーで、1972年7月にコーア・ティキのリングネームで新日本プロレスに来日したことがある[5]。 ハワイでは学生時代にレスリングで活動する一方、試合を終えたプロレスラーが集まるナイトクラブで用心棒として働いていた[1]。アメリカ空軍を除隊後、ハワイ地区のプロモーターだったエド・フランシスに誘われて1959年にプロレス入り[1]。デビュー当初は同じハワイ出身のカーティス・イヤウケアや、ハワイで活動していたニック・ボックウィンクルのフォローを受けていたという[1]。 本名のマクロナルド・カマカ(McRonald Kamaka)名義で活動後、1965年よりアメリカ本土のテネシー地区でトーア・カマタ(Tor Kamata)に改名[2]。日系人レスラーのトージョー・ヤマモトのパートナーとなり、同年10月2日にナッシュビルにてジャッキー・ファーゴ&レン・ロッシーからNWA南部タッグ王座を奪取[6]。ヤマモトとのタッグ解消後もトーア・カマタとして中西部や中南部など各地を転戦、1966年にはオクラホマ地区でジャック・ブリスコやダニー・ホッジと抗争した[7]。 AWA圏では日系人レスラーの大御所ミスター・モトにあやかり、ドクター・モト(Dr. Moto)のリングネームで活躍[4]。ミツ荒川とタッグチームを結成し、1967年10月13日にインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからWWA世界タッグ王座を[8]、同年12月2日にはシカゴでウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取している[9]。翌1968年12月28日、最終的に両王座をブルーザー&クラッシャーに明け渡すまで、AWAとWWAの世界タッグ王座の2冠王として1年間にわたって長期政権を築いた[8][9]。 アラカワとのタッグ解消後、1969年よりリングネームをトーア・カマタに戻し、派手な着物をまとった日系ヒールとして北米の主要テリトリーを転戦[4]。1971年にはNWAセントラル・ステーツ地区にて坂口征二ともタッグを組んだ[10]。カナダのカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)では1972年にクルト・フォン・ヘスやジェフ・ポーツを破って北米ヘビー級王座を再三獲得[11]。王座戴冠中の同年7月8日にはエドモントンにて、当時ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[12]。以降もフラッグシップ・タイトルの北米王座を巡り、ジョージ・ゴーディエンコ、カルロス・ベラフォンテ、アーチー・ゴルディー、ギル・ヘイズらと対戦[13]。同タイプのアブドーラ・ザ・ブッチャーとも流血の抗争を繰り広げた[1][14]。
来歴