キューバ軍
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キューバ革命軍
Fuerzas Armadas Revolucionarias
キューバ革命軍のエンブレム
創設1959年
派生組織キューバ陸軍
キューバ海軍
キューバ空軍および防空軍
民兵組織
指揮官
最高司令官ミゲル・ディアス=カネル大統領第一書記
国防大臣革命軍大臣アルバロ・ロペス・ミエラ(英語版)大将
総人員
兵役適齢17歳から
徴兵制度徴兵制
適用年齢45歳まで
現総人員49,000人(2007)
予備役39,000人(2007)[1]
財政
軍費/GDP3.8%(2006)
関連項目
歴史キューバ革命
ピッグス湾事件
キューバ危機
コンゴ動乱
第四次中東戦争
アンゴラ内戦
オガデン戦争
グレナダ侵攻
エリトリア独立戦争
コントラ戦争
キューバ軍の階級
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キューバ革命軍(キューバかくめいぐん、西: Fuerzas Armadas Revolucionarias、FAR)は、キューバ軍事組織

2007年時点で総員49,000人、予備役39,000人[1]

革命軍は陸海空の三軍種を基幹に青年労働軍などの各種民兵組織から成る。

徴兵制度があり、適齢期中の2年間兵役に服する。興りはキューバ革命を達成した7月26日運動とされる。
概要

1966年から1980年代後半にかけて、ソビエト連邦からの大規模な援助の下でキューバ革命軍はその軍事能力を増強してゆき、国外での軍事作戦を可能とした。特に1980年代の大半を通じてキューバに届けられた装備などは1962年のキューバ危機以前の総量を越える規模であった。1994年時点の推定では現役兵だけで235,000人がいると見積もられた。

1989年、政府は軍隊と内務省を粛清した。これによりアンゴラ派遣軍の司令官だった共和国英雄アルナルド・オチョア少将(Arnaldo Ochoa)、アントニオ・デ・ラ・グアルディア内務省大佐(Antonio de la Guardia)、パトリシオ・デ・ラ・グアルディア内務省少将(Patricio de la Guardia)に麻薬密売の有罪判決が下された。これは死因1(Causa 1)として知られる。オチョアとアントニオ・グアルディアは処刑される。この後に軍は大幅に縮小された。これにより内務省は非公式にラウル・カストロの下で統制されることとなり、陸軍士官の多くが内務省に転籍した。

冷戦終結後、キューバ軍はソビエト連邦からの援助金の減少により大幅に縮小される事となる。正規軍の規模は49,000人にまで低下し、1998年のDIAの報告によれば民兵組織の多く、地方民兵隊、青年労働軍および海軍民兵は過去7年間の退廃によって士気と錬度の低下に苦しんだが、「敵の侵攻に対し潜在的抑止力を保持し得た」と評価した。キューバ軍は「人民戦争戦略」を採用し、特に天然の要害を活用した防勢能力を強化する。

その後キューバ軍はパキスタンによって再訓練を受けている。パキスタン軍はキューバ軍に対し強固な防勢戦略に必要な陸軍士官学校での教育と防衛基盤構築の為の生産に必要な援助と支援を通じ、キューバ軍を現代的な電撃戦型軍隊に変革させる為に諸要素を提供をしている事を強調した。
実戦経験と海外派遣

キューバ革命軍は、領土内における紛争に加え、1961年のピッグス湾事件、1959年から1965年まで続いた対盗賊戦、1963年にはアルジェリアに派遣、1973年にシリアに、1978年にエチオピア、1975年から1988年までアンゴラに長期派遣され、1980年には革命後、左派政権が成立したニカラグアに派遣された。若干の軍高官はゲリラ支援のために各種軍事行動に参加していた。1960年代には域内のベネズエラアルゼンチンボリビアなどで、1980年代にはエルサルバドルで活動し、この他にアフリカ諸国においても、1960年代にはコンゴ民主共和国、及びコンゴ共和国ギニアなどに派遣され、コンゴ動乱や、アンゴラ解放人民運動(MPLA)やギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)の戦闘組織の訓練などでも活動していた[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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