キューティー鈴木
[Wikipedia|▼Menu]

キューティー鈴木
プロフィール
リングネームキューティー鈴木
本名原嶋 由美
身長155cm
体重55kg
誕生日 (1969-10-22)
1969年10月22日(54歳)
出身地埼玉県
スポーツ歴柔道
ハンドボール
トレーナー山本小鉄
デビュー1986年9月19日
プラム麻里子
引退1998年12月27日
テンプレートを表示

キューティー鈴木(キューティーすずき、本名:原嶋 由美 - はらしま ゆみ、旧姓:鈴木、1969年10月22日 - )は、日本の元女子プロレスラータレント女優埼玉県出身、川口市立十二月田小学校川口市立十二月田中学校卒業、川口市立川口女子高等学校中退。
人物

愛らしい容姿からアイドルプロレスラーとして人気を集めた。試合だけにとどまらず歌、ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティ番組など多方面で活躍、トークショーなど各種イベントにもひっぱりだこで絶大な知名度を誇った。『爆報! THE フライデー』(2016年7月22日放送、TBSテレビ)では女子プロレスラー史上最高の美女と紹介された。

現役時代は身長155cm、B86cm、W66cm、H90cm、体重55kg。血液型はAB型。

力道山と言われた大森ゆかり(元全日本女子プロレス)をプロレスラーとしての目標とし、ライバルは尾崎魔弓である[1]

師である山本小鉄の「思いやりのある人間になれ。」という教えに感銘を受け、後輩への指導やインタビューでたびたび引用する。

雑誌では、技を掛けられて苦悶の表情を浮かべる写真が多く使用され、当時のキューティーのイメージとして定着する。男性ファンからは、「そのやられっぷりがいい」と支持され、弱いイメージも持たれるが、受け身のうまさと打たれ強さには定評があり、尾崎魔弓は「あのケガに対する強さは持って生まれた才能だと思う。[2]」と語っており、引退まで大きな怪我はなかった。

プロレスラー時代の趣味は、犬の散歩とファミコン。特に『ドラクエ』に熱中し、『女子プロレスグランプリ』(ソニー・マガジンズ)ではゲームに関するコラムを寄稿していた。ゲームソフトの新作が発売されると、弟に寮まで届けさせることもあった。

アイドル雑誌を好み、特に『DUNK』(集英社)と『BOMB』(学研)を愛読していた[3]。好きな芸能人は永井真理子近藤真彦織田裕二瀬能あづさ三上博史。歌番組で近藤真彦と共演した際は感激していた。

引退後も含め、14冊の写真集を出版している(女子プロレスラー最多)。最終的にヘアヌードまで披露しており、「個人的にはギリギリで行きたかったけど押しに弱いから。[4]」とカメラマンの要求を断れなかった旨を述懐している。レズビアンを彷彿させる尾崎との写真集(『赤い糸』サン出版)の撮影では、カメラマンから「抱き合ったみたいなのやってみようか。」との要求に対し、当初は共に「嫌だ、冗談じゃない!」と抵抗したという[5]

小学4年生の頃から母の薦めで箏を習い始め、中学卒業まで続けていた[1]
経歴
デビュー前

1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ。三つ上の兄、四つ下の弟に囲まれて育つ。小学生の頃、全盛期だったビューティーペアのファンとなり、漠然とプロレスラーになりたいと思い始める。中学3年の頃、クラッシュギャルズの登場で、クラス中に女子プロブームが巻き起こるも、鈴木だけは大森ゆかりを応援する。友人と初めて生観戦したクラッシュギャルズの試合をきっかけにプロレスラーになることを決意した[1]。周囲にプロレスラーへの夢を語るも、本気と捉えた人は少なかったという。

高校受験直前の1985年1月15日、フジテレビのスタジオで全日本女子プロレスのオーディション(受験者二千人)を受ける。応募条件は身長160cm以上だったため(本人は155センチ)、身長・体重ともに履歴書の数字をごまかし、体を大きく見せるため肩にタオルを入れた写真を用意した。それ以前にも身長を伸ばす機材などを通信販売で購入したが、結果的に1cmも伸びなかったという。第一次審査は前転、後転ならびに平均台に上がるだけという簡単なものであったが落選。相当なショックを受け、翌日学校を休むほど落ち込んだ。悔しさのあまり全女の事務所へ抗議電話やいたずら電話をしたと後に告白している[6][7]

1985年4月、川口市立川口女子高等学校へ入学。中学時代から続けていたハンドボール部へ入部したが、夏休みの合宿後、顧問の教師と喧嘩になり退部。プロレスラーになるべく近所の柔道場に通い始めるも[1]、柔道は全くプロレスの役に立たなかったと後に語っている[2]。同年10月、クラスメイトに女子プロを目指していたムーン章子がいたため、共に全女オーディションに応募する。鈴木にとっては二度目となったが今度は書類審査で落とされた[6]

1986年3月、ジャパン女子プロレスの旗揚げを友人から聞き、腕立て、腹筋、スクワット等の実技によるオーディションとジャッキー佐藤との面接を経て合格。両親は「せめて高校を卒業してから」と説得するも、反対を押し切り入門を果たす。しかし、高校中退に反対する教師との間で学校を辞める話がまとまらず、当初は放課後のみ練習場に通うこととなる。当時の練習生の中で、鈴木と同じく川口から通っていたのが尾崎魔弓だった[7]。その他、同期にはハーレー斉藤、エデン馬渕、イーグル沢井ダイナマイト関西らがいる。一学年終了を待って高校を中退。尾崎と待ち合わせて寮へ向かうが、もう後戻りできない不安感から電車の中で人目もはばからず共に泣いたという[6][2][8]
ジャパン女子プロレス時代

1986年、四天王と呼ばれたジャッキー佐藤、ナンシー久美風間ルミ神取忍以外は全員新人という状況でジャパン女子プロレスが発足。ここで鈴木は山本小鉄、グラン浜田の教えを受ける[7]FMW旗揚げ前の大仁田厚も指導に当たるが、選手たちは大仁田に対して快く思っておらず、鈴木本人も「大嫌いでした!」と後年のインタビューで答えている[9]

リングネームの名付け親は秋元康。アップル鈴木、キウイ鈴木などの候補もあったが、キューティーというリングネームも含め、本人は不服だった[6]

鈴木はスポ根ドラマのような、女性同士の美しい友情に支えられた世界を想像していたが、現実との大きなギャップに衝撃を受けたという[9]。練習の厳しさと、気性が激しいレスラー同士の人間関係に耐えかね「もう辞めたい。」といった旨の電話を一度だけ母親にしている[10]。次第に能力の優劣でグループ分けがなされ、劣っていた鈴木は、しばらく受け身の練習ばかりさせられた。8月の旗揚げ戦に向け、優等生グループを中心に練習が組まれるようになっていく。キューティーは食事作りや裏方仕事を任されるようになり、このままデビューできずに終わるのではと、焦りを感じ始める[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef