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この項目では、女神について説明しています。その他の用法については「キュベレー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
キュベレー像
キュベレー(古代ギリシア語: Κυβ?λη / Kybele、フランス語: Cybele、英語: Cybele)は、アナトリア半島のプリュギア(フリギア)で崇拝され、古代ギリシア、古代ローマにも信仰が広がった大地母神である。名前は「知識の保護者」の意。 しばしば「髪の毛のある女性」が語源とされるが、それはプリュギア語ではなくギリシア語と考えた場合である。ギリシア神話に取り入れられる前のプリュギア語での呼び名はクババ (Kubaba
名前
この女神は死と再生の神の一柱である。キュベレーの夫は、同時にキュベレーの息子であるアッティスで、後代にはアッティスの祭祀集団が結成された。
キュベレーは小アジアのイーデー山で生まれたと思われ、ローマで呼ばれた名、マグナ・マーテル・デオールム・イーダエア(Magna Mater deorum Idaea、「イーデーの神々の大いなる母」)はここから来ている(→マグナ・マーテル、Idaea
)。ヘレニズム時代のもっとも熱狂的なキュベレーの信奉者は、みずからを聖なる儀式で完全去勢した男性たちで、この儀式の後、彼らは女性の衣装をまとい、社会的に女性とみなされた。同時代の注釈家であるカルリマコスは彼らを、女性名詞の Gallai (ガッライ、ギリシア語複数形)で呼んだが、古代ギリシアやローマの他の注釈家たちは、男性名詞の Gallos (ガッロス、ギリシア語単数形)や Galli (ガッリー、ラテン語複数形)で呼んだ。女神の女性司祭は、人々を乱交的儀式に導き、儀式では荒々しい音楽、ドラムの響き、踊りに飲酒が伴った。女神は、性器切断された後、甦った息子であるアッティスをめぐる秘儀宗教と関連していた。一説では、三人のダクテュロスたちが女神の従者であった。女神の信奉者たちは、プリュギア語でクルバンテス、ギリシア語でコリュバンテス
と呼ばれ、彼らは、一晩中続く、太鼓の乱打、剣と楯を打ち鳴らす野性的な音楽、踊りに歌に叫び声によって、女神への恍惚として乱交的な崇拝を示した。アタランテーとヒッポメネースは狩の途中、ゼウスの神域に入り、そこで交わったため神の怒りに触れライオンに変えられた。一説では、それはキュベレーの神域ともされ、二人は女神の車を牽くこととなったともされる。 プリュギア(フリギア)のペッシヌースにおいては、遥かな古代より、キュベレーの原型として両性具有ともされるアグディスティス女神の信仰が存在した。紀元前203年、ペッシヌースの大いなる母を具現した聖崇拝物(神像ではなかった)が厳かにも恭しくローマに移された。 キュベレー崇拝は、すでに紀元前5世紀のギリシアで行われており、その地においては女神はしばしば、名を直接に使わず、婉曲語法によって Μητηρ Θεων Ιδαια(メーテール・テオーン・イーダイア、「イーデーの神々の母」)と呼ばれた。キュベレー崇拝への言及は、とりわけピンダロスやエウリーピデースに顕著である。しかし古典ギリシアの著作家たちは、アッティスの去勢の神話はよく知っていたにもかかわらず、性転換した「ガッリー(galli)」については知識がなかったか、または言及を行っていない。 ギリシアにおけるキュベレーの崇拝は、明らかに類似性が認められるディオニューソスの崇拝と密接に関連付けられた。キュベレーはディオニュソースにイニシエーションを与え、逆にディオニュソースはアグディスティスの去勢を行ったとも言われている。ギリシア人たちはまた、キュベレーを「神々の母レアー」と同一視した。
キュベレー崇拝の歴史
概説:アナトリア、ギリシア、ローマ
アナトリアのキュベレークババ像
プリュギアではレアー / キュベレーはアグディスティスとして栄え、大商業都市ペッシヌース (Pessinos) に神殿が置かれた。これは地理家のストラボーンによって言及されている。キュベレーの息子であり愛人であったアッティスが王女と結婚しようとしたのはこの都市でのことである。その時アグディスティス / キュベレーが畏怖すべき栄光と共に現れ、アッティスは自己去勢した。ライオンを膝に乗せ、片手にタンバリンを持つキュベレー像。ルーブル美術館
古代プリュギアでのキュベレーのイメージは、典型的には建物の玄関にあるファサードにみられる。ファサードそれ自体がプリュギア高地にある岩を削って作られたモニュメントと関係がある。ベルトのある長いドレスを着、円筒形の背の高い帽子をかぶり、全身をヴェールで覆っている。通常、猛禽と壷を共にしていた。攻撃的だが従順なライオンも関連づけられる事があった。
その後、ペイディアスの生徒であった彫刻家アゴラクリトス (Agoracritos) が、後に規範的となったキュベレー像を作り上げた。王座に座ってはいるが、気品と母性が増している。完全に静止したライオンの首に手を乗せ、もう一方の手はタンブリン(ティンバロン)のような丸い輪を持つ太鼓を掴んでいる。その太鼓は満月を呼び起こさせるもので、聖なる月の牡牛の皮でカバーされている。
ミューシアでは Dindymus の山がキュベレーに捧げられた。 紀元前8世紀から紀元前6世紀には、この女神は単独で現れたが、後に息子であるアッティスと共に現れるようになった。母の嫉妬をかったアッティスは、エクスタシーのうちに自ら性器を切り落とし、死んだ。キュベレーは嘆き彼を復活させた。常緑の松と蔦がアッティスに献じられた。 エクスタシーの極みに達したキュベレー信者の中には、ローマで galli と呼ばれていた者たちがいる。彼等はアッティスに倣い自ら進んで信仰による去勢をした。マグナ・マテルであるキュベレーを信仰するローマ人はそこまでしようとは思わず、「大いなる母」に捧げられる動物の一つである牡牛の睾丸を取って代用品とした。これは多くの碑文に示されている。紀元160年の碑文では、牡牛の精巣をローマからフランス、リヨンのキュベレーの社に運んだとある。 キュベレー崇拝はアナトリアとシリアの内陸部からクレーテー島他のエーゲ海の島々やギリシア本土にまで拡がった。
キュベレーとアッティス
エーゲのキュベレー