キュプセロス_(僭主)
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キュプセロス(古希: Κ?ψελο?, Kypselos、?-紀元前625年、在位:紀元前657年-紀元前625年)は紀元前7世紀コリントス僭主である。
来歴

キュプセロスはエエティオン[1]とコリントスを支配するバッキアダイ(バッキス一族)のラブダの子である。生まれたばかりのキュプセロスはデルフォイで不吉な神託が下されたためにバッキアダイの者に殺されかけた。エエティオン邸にやってきた刺客たちはラブダに子供を見せて欲しいと言い、キュプセロスを抱いたところ、キュプセロスがにっこりと微笑んだために彼らは哀れみを感じて殺せなくなった。このために刺客たちは一度エエティオン邸を出たが、再び彼らは戻ってきた。その時には彼らの企みを知っていたラブダは櫃(キュプスレー)の中に赤子を隠してやり過ごした[2][3]。このため、この赤子はキュプセロスと名付けられた。キュプセロスは後にこの櫃をオリュンピアに奉納した[4]。成長したキュプセロスは紀元前657年にバッキアダイの者たちをデルフォイの神託を伺うためと称して市外に出し、そのまま追放してコリントスの僭主になった[5][6]。その際、キュプセロスはゼウス神に市の政権を握ったらコリントス人の全財産を奉納すると約束した。政権を奪取した彼は市民に財産表を書かせてその10分の1を取り上げて奉納し、それを10年間繰り返し、コリントス市民を無一文にすることなく約束を果たした[7]。僭主になったキュプセロスは多くのコリントス人を殺したり、追放したり、財産を没収したりするなど苛政を敷いたが[2]、一方でキュプセロスは民衆の人気取りに勤めて護衛兵を持たなかったという[8]。32年の統治の後にキュプセロスは死に、地位は子のペリアンドロスが引き継いだ[2]
脚注^ ヘロドトス, V. 92 によると、この人物はラピタイ族の王カイネウスの後裔という。
^ a b c ヘロドトス, V. 92
^ プルタルコス, 「七賢人の饗宴」, 21
^ パウサニアス, V. 17. 5
^ パウサニアス, II. 4. 4
^ ポリュアイノス, V. 31
^ アリストテレス, 『経済学』, 1346a-b
^ アリストテレス, 『政治学』, 1315b

参考文献

アリストテレスアリストテレス全集15 政治学 経済学』山本光雄・村川堅太郎訳、岩波書店、1969年

パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍渓書舎、1991年

プルタルコス『モラリア2』瀬口昌久 訳、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、2001年

ヘロドトス歴史(中)』松平千秋訳、岩波文庫、1972年

ポリュアイノス『戦術書』戸部順一訳、国文社 叢書アレクサンドリア図書館、1999年


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