キュスティーヌ
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Custines


行政
フランス
地域圏 (Region)グラン・テスト地域圏
(departement)ムルト=エ=モゼル県
(arrondissement)ナンシー郡
小郡 (canton)アントル・スイユ・エ・ムルト小郡
INSEEコード54150
郵便番号54670
市長任期)ルネ・アンリ
2014年-2020年
自治体間連合 (fr)fr:Communaute de communes du Bassin de Pompey
人口動態
人口2930人
2015年
人口密度249人/km2
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度47分33秒 東経6度08分36秒 / 北緯48.7925度 東経6.1433度 / 48.7925; 6.1433座標: 北緯48度47分33秒 東経6度08分36秒 / 北緯48.7925度 東経6.1433度 / 48.7925; 6.1433
標高平均:m
最低:182 m
最高:395 m
面積11.76km2
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キュスティーヌ (Custines)は、フランス北東部、グラン・テスト地域圏ムルト=エ=モゼル県に属するコミューンの1つである。
地理ムルト川とモゼル川の合流地点。

キュスティーヌは、通称『地獄の口』と呼ばれる、ムルト川モゼル川へと合流する地点に位置する。なお、モゼル川へと合流した水は、ドイツに入るとライン川へと合流し、最終的に北海へと注ぐ。つまり、この街は大陸分水嶺の北海側に位置している。
歴史

キュスティーヌの古い名前はcondeといい、ケルト語の語源からきていることから明らかなように、昔ケルト人たちがコミューンの地に定住していた。後のガロ=ローマ時代のヴィラは、メロヴィング朝時代のネクロポリスと同様に、この地に非常に古くから定住地があったことを示す。教区の首座たる母教会は、何世紀にもわたるこの地の年表が確認できるし、一定してこの場所を占めていたことがわかる。モゼル川右岸側の小さな支流であるモシェール川が合流する地点にあるこの村は、メス司教座の領地における製塩の中心地ソルノワ地方へ、谷を通じて往来できる古い道路の出発点であった。

1253年に最初の城が建設されたが、すぐにバル伯の手に渡った。1420年、ロレーヌ公領とバル公領の統合が、城の現代化のきっかけになった。

ナンシーの戦いの後の1477年、この城には頻繁に宮廷が置かれた。初代ギーズ公クロード・ド・ロレーヌはこの城で誕生している。一方で、コンデの町は絶えず発展していった。対フランス戦争に伴い、1635年に城は解体され、20世紀初頭まで採石場として役立てられていた。

コンデ・シュル・モゼルは、ナンシー総督であるキュスティーヌ伯に属していた。ロレーヌ公レオポール1世はキュスティーヌ伯にちなみキュスティーヌと改めた[1]フランス革命後、町はポール・シュル・モゼルと改名させられた。1800年前後、かつてのキュスティーヌの名に戻った。

町の経済は19世紀の産業ブームでかなり回復したが、鉄鋼の町に転換したフルアールやポンペとは異なり、キュスティーヌは農村の側面を保持し続けた。

キュスティーヌはスムーズに第一次世界大戦を迎えたが、1944年にはモゼル川に架かる橋が爆撃され、村の一部が橋に加えて破壊され、画家ルイ・ギニョの自宅と、彼の名を冠した学校の一帯が破壊された。

1970年代に起きた最初の鉄鋼危機に伴い、ポンペ工業団地は事実上軽工業に転換され、町は発展を続けていった。
人口統計

1962年1968年1975年1982年1990年1999年2006年2015年
26393046290028412813299130012930

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[3]
出典^ Michel Jacquot, ⇒≪ Custines ≫, La Grande Guerre en Lorraine.
^Custines - Notice Communale
^ Populations legales 2015

典拠管理データベース
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