キャンベラ
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この項目では、オーストラリアの首都について説明しています。その他の用法については「キャンベラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

キャンベラ
Canberra


連邦議事堂オーストラリア戦争記念館
市街を貫くANZACパレード
国立大学国立図書館/ブラック・マウンテン・タワー
位置

キャンベラの位置


歴史
設立日1913年3月12日
行政
オーストラリア
 特別地域 オーストラリア首都特別地域
 首都キャンベラ
地理
面積 
  首都域814.2[1] km2 (314.4 mi2)
人口
人口2013年6月30日[2]現在)
  首都域374,245人
    人口密度  428.6人/km2(1110人/mi2)
その他
等時帯オーストラリア東部標準時 (UTC+10)
夏時間オーストラリア東部夏時間 (UTC+11)

キャンベラ(Canberra:[?kanb?r?, kan?b?r?] ( 音声ファイル))[3])は、オーストラリア首都オーストラリア首都特別地域(ACT)に属し、シドニーの南西280キロメートル、メルボルンの北東660キロメートルに位置している。人口は約37万人で、オーストラリア国内では8番目、同国内陸部では最大の都市である。キャンベラの市民を英語で、Canberranと呼ぶ[4]

1901年のオーストラリア独立に際し、同国の二大都市であるシドニーとメルボルンの間で首都機能の誘致をめぐる争いがあった。そのため、妥協案として新首都が建設されることになり、1908年、キャンベラがオーストラリアの首都建設地に選ばれた。他のオーストラリアの都市とは異なり、キャンベラは最初から首都として設計され、建設された歴史を持つ。キャンベラの都市設計においては、国際的なコンペティションが実施され、都市計画が作成された。

キャンベラの建設に際しては、非効率な官僚機構のため都市の発展は大きく遅れることになった。 第二次世界大戦後、ロバート・メンジーズ首相がキャンベラの整備を指揮し、国立首都発展委員会(NCDC)が設立され開発が進んだ。キャンベラには自治権が与えられているが、オーストラリア連邦政府は、NCDCの後継のNCA、国家首都局(英語版)を通じて、キャンベラの都市開発に大きな影響力を保持している。

キャンベラには、オーストラリア連邦議会、首相公邸(英語版)(ザ・ロッジ)、オーストラリア高等裁判所などの政府機関がある他、百以上の大使館が立地している。首都機能以外にも、オーストラリア戦争記念館(英語版)、オーストラリア国立大学オーストラリア国立スポーツ研究所オーストラリア国立美術館(英語版)、オーストラリア国立博物館オーストラリア国立図書館といった多くの社会的、文化的な施設がある。オーストラリア陸軍の教育機関として、王立軍事大学があり、オーストラリア国防大学もキャンベラにある。
語源

キャンベラの語源のうち、広く知られているのは、先住民族の言葉であるングンナワル語のKamberaが由来で、「人々が集う場所」と言う意味である[5]

一方、1860年代に、クイーンビアンの新聞社のオーナーであったジョン・ゲイルが報告した内容によると、先住民の言語で「女の胸の谷間」を意味する「nganbra」あるいは「nganbira」が英語化されたものであるとしている。この報告では、アインズリー山(英語版)とブラックマウンテン(英語版)の間にある氾濫原のサリバンス川についても言及している[6]

代替案としては、Austral、Australville、Aurora、Captain Cook、Caucus City、Cookaburra、Dampier、Eden、Eucalypta、Flinders、Gonebroke、Home、Hopetoun、Kangaremu、Myola、Meladneyperbane、New Era、Olympus、Paradise、Shakespeare、Sydmelperadbrisho、Swindleville、The National City、Union City、Unison、Wattleton、Wheatwoolgold、Yass-Canberraなどがあった[7][8][9]
歴史詳細は「en:History of Canberra」を参照

ヨーロッパ人が移住する前の、キャンベラを含むオーストラリア首都特別地域(以下、ACT)は、先住民が季節に応じて、居住していたことが分かっている。文化人類学者のノーマン・ティンデール(英語版)は、キャンベラを含む一帯は、ングンナワル人(英語版)が居住していたと考えている。また、一方で、ンガリゴ人(英語版)がACTの南に、ワンダンディアン人が東に、加えて、ガンダンガラ人(英語版)がACTの北に、ウィラジュリ人(英語版)が北西に居住していた。この地域で発掘された遺跡から分かることは、少なくとも、21,000年前からこの地域に人々が住んでいたと考えられており[10]、当時の人々の遺跡では、ロック・シェルター、岩に描かれた壁画、埋葬場、キャンプ、石切り場が発見されており、石器の使用も確認されている[11]1860年代に建設されたブルンデルズ・コテージ(en)は、キャンベラに残る、最初期のヨーロッパ系住民の住宅の数少ない建築物である[12]

キャンベラにヨーロッパ人が居住し始めたのは1820年代初頭のことである[13][14]。1820年から1824年の間にかけて4つの遠征隊が組織され[13][14]、その結果、1824年に最初の白人居住地が建設された。その場所は、現在のバーリー・グリフィン湖北岸であり、ジョシュア・ジョン・ムーアによって雇われた人々が最初に居住した[15]。ムーアは、1826年に遠征隊の居住地を正式に買収し、その土地を「Canberry」と名付けた[16]

19世紀を通して、移住者の数は非常にゆっくりと増加した[17]。19世紀に建設された建築物で目立つものと言えば、スコットランド移民のキャンベル氏がドゥントルーンに建てた石造りの農家で、現在は王立軍事大学(英語版)内で食堂として使われている。

キャンベラに現存する最古の公共建築物は、ライド地区にある[18]聖公会系の洗礼者ヨハネ教会(the church of St John the Baptist)で、1845年に建設された[19][20]。この教会の墓地は、キャンベラ地方で最古の墓地である[21]

ヨーロッパ人の人口が増えるに連れて、先住民の人口は天然痘あるいは麻疹を原因として、減っていった[22]
首都計画

オーストラリアの首都を新たに建設することに決定したのは、1901年の独立直前のことである[23][24]。当時のオーストラリアの二大都市であるニューサウスウェールズ州の州都シドニービクトリア州の州都メルボルンの間で、独立後の連邦の首都の座をめぐって[25]、長い間、議論がなされていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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