キャンプ・ドレイク
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キャンプ・ドレイク(: Camp Drake)は、埼玉県和光市朝霞市新座市東京都練馬区にまたがる、アメリカ陸軍第8軍団[注釈 1]隷下部隊、第一騎兵師団(ウィリアム・チェイス(英語版)将軍)が駐屯していた基地の名称である。旧米軍朝霞(あさか)キャンプ。施設番号はFAC 3048。

キャンプは「キャンプ・ノース(CAMP North)」「キャンプ・サウス(CAMP South)」から成る南北2つのエリアで構成されている。基地面積は約4.5平方キロメートル。一部地域を除き返還済みである。なお、ドレイクとは、1945年(昭和20年)マニラの戦いにて戦死した同騎兵師団大佐であったロイス・A・ドレイクの名に因む[1]
返還概要
キャンプ・ノース

ベトナム戦争からの米軍撤退を受けて陸軍部隊が1970年代前半に他の米軍基地へ移転し、代わって第5空軍第475基地航空団(英語版)の管轄下に置かれていたが、1976年(昭和51年)11月30日に変電施設[注釈 2]および給水施設、ならびに中心部分を除く401,246平方メートルが返還された。なお、返還された土地のうちの未返還地区の縁辺部分に隣接する3,846平方メートルの区域は返還時の取り決めにより、緩衝地帯として保持する目的で事実上米軍へ継続提供され、跡地利用が留保・制限されていた[2]

1980年(昭和55年)12月19日には、埼玉県立朝霞西高等学校の開校により、同校の校庭内に残存していたノースキャンプの給水施設(土地約80.94平方メートル、建物約18.39平方メートルほか井戸、囲障等工作物)と地下に埋設されていた水道管の地役権が返還された[3]

残余の未返還地区である117,359平方メートルは米空軍の自動デジタル通信網スイッチ施設[注釈 3]として使用されていたが、1980年代半ばまでに米軍の通信網やシステムが近代化されたことに伴って横田飛行場への機能移転が決定し、移転完了後の1986年(昭和61年)2月14日をもって北キャンプの全域が返還された[4]
キャンプ・サウス

1973年(昭和48年)1月23日に行われた日米安全保障協議委員会第14回会合において協議された「関東平野合衆国空軍施設整理統合計画(KPCP/通称・関東計画)」に基づき[5]1973年(昭和48年)6月20日に南地区内のゴルフコース・リクリエーション施設・兵舎地区の大部分が返還されたの皮切りに、1978年(昭和53年)7月10日までに現演習地である根津パーク地区、住宅地区、放送局地区、ベーカリー・製パン工場地区も順次返還され、後は国有地などになる。このことから跡地には国の施設や公団などが多く建設されていることが特徴である。現在、和光市南地区にあたるAFN送信用アンテナが設置されている敷地が残るのみとなっている[注釈 4]
キャンプ・ノースキャンプ・ノース概要図 昭和49年撮影の航空写真より。北側中央に見える特徴的な建物がリトルペンタゴンである。

キャンプ・ノース・ドレイク(CAMP North Drake)ノースキャンプ。埼玉県朝霞市内に存在する国道254号川越街道[注釈 5]より北側、朝霞市役所手前までの敷地を指す。一般にキャンプドレイクと呼ばれているのは、このノースドレイク跡地の事を指したものである。帝国陸軍被服廠(ひふくしょう)跡地[注釈 6]
陸軍被服本廠朝霞出張所?東京陸軍被服支廠時代

東邦電気研究所銃器弾薬を生産した中央工業 新倉工場、計算尺を生産した逸見製作所 白子工場、風船爆弾気球部分である和紙を製作した共和航空、同じく風船爆弾の高度保持装置フレームを製作した中外火工品 白子精機工場、菱興金属工業、日本鋳物工業、東京部品工場、山本螺子、松本興業、昭和食品、興和製作所など町工場が現在の和光朝霞地域に多くあり、中島飛行機ラジエター製作所である「皇国3002工場」と呼ばれた伸銅工場などもすでに操業しており、東武東上本線や幹線道路など輸送に適した立地であったことや都心から離隔してはいるが比較的近い場所にあることから、陸軍の白羽の矢が立った。

当初、赤羽から陸軍被服本廠の一部機能が移転した。その後も陸軍によって買収された10万坪に及ぶ大規模軍需工場である陸軍被服本廠朝霞出張所の建設が開始され、1941年(昭和16年)に正式操業を開始する。工場の本格操業に合わせ、1940年(昭和15年)には朝霞駅近くから被服本廠朝霞出張所までの引き込み線が作られている[6]

昭和20年4月21日、朝霞出張所は東京陸軍被服支廠に昇格したが、その約4か月後に終戦を迎えた。

米軍資料から南地区を含む被服廠地域を爆撃目標から外すなど戦後政策が考慮されていた[7]
米軍進駐後

ノースドレイク敷地内にはリトルペンタゴンと呼ばれる第500情報団本部や米陸軍戦略陸軍通信隊(英語版)(STARCOM)の主要中継局舎が作られ、これに付随した送信アンテナは桃手地区(現:和光市 南地区)に建設された。名称もFEN東京となる。輸送隊、憲兵隊、補給隊が駐屯した。これらに伴う隊員宿舎やバーなども建設され、1952年(昭和27年)には米軍極東指令部(ダグラス・マッカーサー司令)が置かれ、朝鮮戦争時には諜略撹乱放送なども行われている[8]。また基地に従事していた日本人は4,000人に及んだ。

朝鮮戦争時には、駐屯していた第一騎兵師団から1万5,000人もの兵士が前線へと送られた。この派兵は3ヶ月交代であり、朝霞は帰休兵の休暇場となる。この時期に基地内に戦車を修理するための修理工場なども作られている。基地周辺では様々な人種が絡む殺人暴力事件、窃盗、買売春などの発生によって治安が悪化し、「埼玉の上海」と称された[注釈 7]。この治安悪化により、当初、浦和警察署管内であったが、治安対策のために1947年(昭和22年)に朝霞警察署が建設されている[9]。戦死者が多く、辛うじて帰還した兵士も精神を病んでしまうことが多かったため、これが機縁したとされる。

ベトナム戦争時には、傷病兵治療のための野戦病院「米陸軍第249総合病院」を北キャンプ内に建設し、それに伴うヘリポートも併設される[注釈 8]。完成当初、延べ床数は200床であったが、ベトナム戦争が泥沼化するにつれて2,000床を超え、テト攻勢が行われた1968年には傷病兵を運ぶヘリコプターの往来が激しくなっている[10]


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