キャンディーズ
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同名の楽曲については「あなたに夢中?内気なキャンディーズ?」をご覧ください。

キャンディーズ
出身地 日本
ジャンルアイドル歌謡
活動期間1973年 - 1978年
レーベルCBS・ソニー
事務所渡辺プロダクション
共同作業者松崎澄夫

旧メンバー■伊藤蘭(ラン)
藤村美樹(ミキ)
田中好子(スー)

キャンディーズ(Candies)は、1970年代に活躍した日本女性3人組のアイドルグループコメディエンヌである。所属事務所渡辺プロダクション。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版社員だった松崎澄夫プロデュースによるものであった。
メンバー

伊藤蘭愛称はラン、1955年昭和30年)1月13日(69歳) - )立ち位置は真ん中、メンバーカラーは赤。

藤村美樹(愛称はミキ、1956年(昭和31年)1月15日(68歳) - )立ち位置は左、メンバーカラーは黄。

田中好子(愛称はスー、1956年(昭和31年)4月8日 - 2011年(平成23年)4月21日(55歳没)立ち位置は右、メンバーカラーは青。

略歴
デビュー当時

キャンディーズのメンバーは、3人とも東京音楽学院スクールメイツ出身。最終選抜で3人が選ばれたが、当時のスクールメイツには3人以外に太田裕美ザ・ヴィーナスのボーカルであったコニーがいた。

1972年昭和47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。

3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)にすぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし、『歌謡グランドショー』に出てしばらくたったころ、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいる」と目を留めた。松崎が担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事があったので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。メンバーの愛称は親しみやすく呼びやすいカタカナ表記で「ラン」「スー」「ミキ」とした。

1973年(昭和48年)9月1日に「あなたに夢中」で歌手デビュー。レコードデビュー前から人気バラエティ番組8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演しておりグループ名は知られていたが、楽曲に関してはしばらくはヒットに恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、3人の内で最年少ながら最も歌唱力が高かったスーが起用されていた。
人気歌手へ

当時のマネージャーである諸岡義明は、キャンディーズをスターダムに押し上げるためにはどのようなアプローチをしたらよいか試行錯誤し、ファン層にも着目した。メンバー3人のなかで、ランのファンは、スー、ミキのファンよりも男性の比率が高く、年齢も幅広いことに気づいた。少し色っぽい憧れのお姉さん的な雰囲気をランは醸しており、それが男子学生らを中心に支持を得ていることを確信した諸岡は、1975年(昭和50年)に5枚目のシングル「年下の男の子」をリリースするにあたり、ランをセンターに据えてメインボーカルを取らせる決断をする。この予見は見事に当たり、同曲はオリコンにおいて9位を獲得、念願だった初のベストテン入りを果たす[1]。この大ヒットが起爆剤となり、キャンディーズのファンクラブ会員数は激増した。とりわけ大学生の熱心なファンが堂々とファンであることを公言し、親衛隊を名乗り結成する者たちもいた(のちに「全国キャンディーズ連盟に加入したファンも多くいる)[2]

1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。その後1977年(昭和52年)にも「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」など、シングル曲が立て続けにヒットする。それ以降のシングルでは、ミキがセンターでメインボーカルを務めた「わな」以外、全てランがセンターポジションであった。人気歌手グループとなってからも、『8時だョ!全員集合』や『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』などのバラエティ番組への出演は続け、以前と変わらずにコントもこなす親しみやすさで、幅広い人気を獲得した。3人のスタイルの良さも注目され、髪型やメイクを真似る女性ファンも多かった。特にランのヘアスタイルは「蘭ちゃんカット」と呼ばれ、支持された[3]

キャンディーズのデビューから3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したピンク・レディーとは、同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それゆえ、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、スーとピンク・レディーのケイこと増田恵子はとても仲がよかった。セールスの勢いは7枚連続1位、5枚連続ミリオンセラーなどで、怪物とまで呼ばれたピンク・レディーには及ばなかったものの、大手プロダクション所属の強みもあって、バラエティーへの対応力など、活動の柔軟性、多彩さではリード、中高生や大学生を中心とするファン層の熱心さもあって、両グループは対照的なかたちで70年代末のアイドルシーンを牽引した。
人気絶頂時の解散

1977年の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如解散を発表する。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、ランが大勢の観客に向かって「皆さん、今日は本当に、どうもありがとう」と感謝を述べた後、ミキ、スーと寄り添いつつ号泣した。3人は涙を流し続けながら、ランが「私たち、皆さんに、謝らなければならないことがあります」、ミキが「ごめんなさい」、スーが「許してください」と、それぞれファンに対して謝罪する。それから「私たち、9月で解散します」と突然の解散を宣言。その時に、ランが泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!!」は非常に有名になり、当時の流行語にもなっている。

翌日の7月18日午後、キャンディーズは銀座メイツ[注釈 1]において緊急記者会見を行い、また同日夜にはフジテレビ系列『夜のヒットスタジオ』へ生出演の際、改めて陳謝する。当初3人は、2か月後の同年9月末限りで解散する意思を固めていたものの、事前に渡辺プロの正式な了承を得ずに発表したこともあり、渡辺プロからの説得と話し合いの末、解散はその後約半年間先送りされることになった。

上記の「普通の女の子に戻りたい」発言を含めて、当時の人気アイドルがほぼ独断で解散を口にしたことは世間に衝撃を与えた[4]。この電撃的な解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では、最初で最後のオリコン1位を獲得する。それまでのシングルが1位を獲得したことがなかったため、ファンをはじめ関係者が解散までには1位を獲得させたいとする支援の後押しがあった(後述)。キャンディーズは解散によって、さらに人気を盛り上げたといえる。また、キャンディーズのバックバンド・MMPでギタリストを務めた西慎嗣は、次のように回想している。「キャンディーズのコンサートは、解散宣言後から雰囲気が大きく変わったのを感じました。1978年3月18日の福岡のステージを皮切りに全国を縦断した『ありがとうカーニバル』では、幕が開いた瞬間から“解散当日に向けて彼女たちを最高の状態で送り出す”というファンの熱意が伝わってきました」[4]

1978年(昭和53年)4月4日、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め[5]、マスコミが「歌謡界史上最大のショー」と呼び、日本でも『ザ・ピーナッツ さよなら公演』以来2例目となるお別れコンサート(『ファイナルカーニバル』)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。センター寄りの観客席からはセカンドベース後方に設置された舞台の様子が見えず、26インチほどの街頭テレビが幾台か設置され、観客はそれを見つつ公演を堪能した。なお、このキャンディーズによる後楽園球場でのコンサートは、女性歌手(グループ)初のスタジアムコンサートとなった[4]


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