キャロル・シェルビー
基本情報
フルネームキャロル・ホール・シェルビー
国籍 アメリカ合衆国
出身地同・テキサス州
生年月日 (1923-01-11) 1923年1月11日
没年月日 (2012-05-10) 2012年5月10日(89歳没)
F1での経歴
活動時期1958-1959
所属チーム'58 マセラティ
'59 アストンマーティン
出走回数8
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント0
ポールポジション0
ファステストラップ0
最終戦1959年イタリアGP
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キャロル・シェルビー(Carroll Hall Shelby 、1923年1月11日 - 2012年5月10日)は、アメリカ合衆国テキサス州出身の1950年代後半に活躍した元レーシングドライバーである。
レース引退後はレーシングカーデザイナーとして後世に残る名車を数々創り上げた。1991年国際モータースポーツ殿堂入り。
2012年5月10日、テキサス州ダラスで死去[1]。89歳没。 ダラスにあるウッドロー・ウィルソン高校を卒業後、アメリカ陸軍航空隊に入隊。第二次世界大戦まで飛行教官やテストパイロットなどをしていた。 除隊後養鶏場を経営するが、友人に誘われアマチュアレースに参戦し優勝してしまう。この勝利がきっかけとなり、プロの道へ進むこととなる。 1958年、第6戦フランスグランプリ(ランス)でスクーデリアチェントロ・マセラティよりF1デビュー、予選17位、決勝リタイヤ。 第7戦イギリスグランプリ(シルバーストン)で予選15位、3周遅れながら初完走。 第10戦イタリアグランプリ(モンツァ)でリタイヤしたものの、チームメイトで同郷のマステン・グレゴリー 1959年、第3戦オランダGP(ザントフォールト)よりアストンマーティンで参戦、予選10位、決勝リタイヤ。 同チームよりル・マン24時間レースにDBR1
レーサーとしての経歴
初期の経歴
F1参戦・ル・マン優勝
第5戦イギリスグランプリ(エイントリー)で自身予選最高位の6位となるも決勝リタイヤ。
第8戦イタリアグランプリ(モンツァ)のレースを最後に引退。予選19位、決勝10位。 心臓病でレーサーを引退後、シェルビー・アメリカンを設立。イギリスのACカーズ
カーデザイナーとしての経歴
フォード時代
一方で当時フェラーリ買収を目論見失敗に終わっていたフォードは、ル・マンでフェラーリを打ち負かすためGT40を走らせていたが1964年、1965年と連続して全車リタイヤの憂き目にあっていた。1965年のル・マン24時間レース終了後、シェルビーアメリカンによるリメイクがおこなわれ、Mk.IIとなったGT40は、翌1966年のル・マン24時間レースで1-3位までを独占。その後Mk.IVに進化して1967年、1968年、1969年と4連覇を達成した。
こうした過程で当時フォードの副社長であったリー・アイアコッカと親密な関係にあったキャロル・シェルビーは、若者に人気のあったマスタングのレースバージョンであるシェルビーGT350やGT500を製作するなど、ますますフォードとの関係を深めていった。 アイアコッカがフォードを解雇されクライスラーの社長に就任すると、フォードとキャロル・シェルビーの関係も困難な様相を見せ始めた。シェルビーはクライスラーのなかでも、とりわけダッジブランド車のモディファイを手がけるようになる。ベースとなったのはサブコンパクトのダッジ・オムニ、ダッジ・チャージャー(このチャージャーはシャーシこそオムニと共有だがボディースタイルはまったく異なっており、スポーティである)、チャージャーをベースによりスポーティで高級感を出したダッジ・デイトナ、ミッドサイズのスポーティセダンダッジ・ランサー、チャージャーが生産終了したあと後継車で登場したダッジ・シャドウ
クライスラー時代
レース戦績
F1250FARGMONNED500BELFRA
RetGBR
9GERITA
4*MORNC
(32位)0
マセラティ/テンプル・ビューエルPOR
9
1959年アストンマーティン/デヴィッド・ブラウンDBR4/250MON500NED
RetFRAGBR