キャロル・ケイ
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キャロル・ケイ
Carol Kaye
出生名Carol Smith
生誕 (1935-03-24) 1935年3月24日(89歳)
出身地 アメリカ合衆国 ワシントン州エヴァレット
職業ミュージシャン、教育者
担当楽器ベース、ギター、バンジョー
活動期間1949年-
公式サイト ⇒www.carolkaye.com

キャロル・ケイ(Carol Kaye、1935年3月24日 - )は、アメリカ合衆国の女性ベーシストギタリスト、スタジオ・ミュージシャン、教育者。アメリカ合衆国ワシントン州エヴァレット出身。1950年代から1970年代半ばにかけて活躍した。

2020年、ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第5位[1]
来歴

ミュージシャンの両親の下に生まれ、10代からプロのジャズ・ギタリストとして活躍。1960?1970年代には、ロサンゼルスのセッション・ミュージシャンとして、「1万曲以上のレコーディングに参加」といわれている。彼女は、リッチー・ヴァレンスの「ラ・バンバ」でリズム・ギターを担当している。またブライアン・ウィルソンに気に入られ、彼はキャロル・ケイが多くの曲でベースを演奏していたことを認めている。彼女は『ペット・サウンズ』『スマイル』などでも演奏していた。当時のヒットソング、映画音楽でその演奏を聴くことができる。1970年代から音楽教育の道に進み、多くの出版物を刊行。大学の教壇にも立ち後進を育成した。

1960年代中期以降、デトロイトに拠点を置くモータウンからハリウッドのスタジオに仕事が入るようになり、LA musicians union(LAで活動するミュージシャンの印税・年金等を管理する労働組合)に所属していたキャロル・ケイをはじめとする多くのセッション・ミュージシャン(後にレッキング・クルーといわれる)がレコーディングに参加。モータウンは1972年に本社を西海岸ロサンゼルスに移転するが、実は1960年代初頭から支所をロザンゼルスに設置していた。キャロル・ケイは、西海岸録音のモータウン楽曲でベースパートのほとんどをプレイした。

ただし、ジェームス・ジェマーソンらのプレイしたいわゆる「モータウン・サウンド」と、キャロル・ケイらが演奏した曲では、はっきり曲調が異なり、聴き分け可能なほどである。キャロル・ケイは、組合の支払調書などからスプリームスフォー・トップスマーヴィン・ゲイ&タミー・テレルテンプテーションズらの一部の曲でプレイしたことが証明されており、他にポップスのサイモン&ガーファンクルフランク・シナトラバーブラ・ストライサンドモンキーズの曲でも演奏をおこなった[2]。過重労働を防ぐ組合の規約により、ミュージシャンはトラックダウン作業に参加できなかったため、どの曲に自分の演奏が使われたのかわからないのが実情という。実際は、支払調書で証明されたもの以外でも様々な曲のバッキングをつとめたものと見られる。

1970年代以降、ジェームス・ジェマーソンとは面識があったようで、ロサンゼルスに転居した彼を丁重に迎え入れたとジョー・パスのアルバム『ベター・デイズ』のライナーノーツで語っている。

多くのヒット曲に関わったが、1970年代の半ばで一線を退いて以来、一部の関係者に知られるのみで、長く無名の存在であった。そんな彼女に転機をもたらしたのは、アカデミー賞を受賞した映画『永遠のモータウン』だった。作中、ハリウッド録音の楽曲がデトロイトのハウスバンド、ファンク・ブラザーズの演奏として紹介されたことに異議を唱え、レッキング・クルーや自身の功績を積極的にアピール。当初は風当たりが強かったものの、カナダで彼女の経歴を伝えるドキュメンタリー番組『First Lady of Bass』が放映される。また、モータウン以外の様々な音楽的功績が改めて評価されたこともあり、アメリカで幾多の音楽賞を受賞した。レッキング・クルーについてもドキュメンタリー映画が製作されている。

私生活では愛猫家である。


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