キャロル・キング
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キャロル・キング
Carole King
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのイベントにて (2012年12月)
基本情報
出生名Carol Klein
生誕 (1942-02-09) 1942年2月9日(82歳)
出身地 アメリカ合衆国
ニューヨーク市ブルックリン
ジャンルポップス
ブルー・アイド・ソウル
職業シンガーソングライター
担当楽器ピアノキーボード
活動期間1958年 - 現在
レーベルOde Records
キャピトル・レコード
アトランティック・レコード
Rhythm Safari
Rockingale
公式サイト ⇒Official Website

キャロル・キング(Carole King, 1942年2月9日 - )は、アメリカ合衆国シンガーソングライター

1958年に16歳でデビューし、1960年代初頭からは夫ジェリー・ゴフィンとの夫婦による作曲コンビで、ヒット曲を連発した。1970年代のシンガーソングライター・ブームの代表的な女性歌手となった。

1960年代に作られた初期の曲は20曲以上チャートインされ、その多くがスタンダード曲として世界中の多くの歌手に歌われている。キング自身がパフォーマーとして成功したのは1970年代になってからであり、ピアノを弾きながら一連のアルバムやコンサートで自作曲を歌った。デビューアルバム『ライター』で商業的な失敗を経験した後、1972年にアルバム『つづれおり』をリリース。『つづれおり』でブレークスルーを記録した[1]

キングは25枚のソロアルバムを作成し、最も成功したのは『つづれおり』であり、20年以上にわたってほとんどの週で女性アーティストによる1位の記録を保持した。彼女のレコード販売数は世界中で7,500万枚を超えると推定されている。[2][3]

キングはグラミー賞を4回受賞しており、ソングライターの殿堂 (Songwriters Hall of Fame) 入りおよびロックンロールの殿堂入りを果たした[4]。また2013年度のアメリカ議会図書館によるポピュラーソングのためのガーシュウィン賞を受賞した[4]

また、2015年に『ケネディ・センター名誉賞』も受賞している。民主党の熱心な支持者である。
経歴空母ハリー・S・トルーマン艦内でのライブ (2000年12月)NY公演にてジェームス・テイラーと共演 (2010年6月)
概要

本名キャロル・クライン(Carol Joan Klein)。ニューヨーク市ブルックリンのユダヤ人家庭に生まれた[5]1958年に歌手デビュー。1人目の夫、ジェリー・ゴフィンとの間に生まれた長女のルイーズ・ゴフィン(英語版)も、シンガーソングライターとして活動している。2番目の夫はベーシストのチャールズ・ラーキー。1977年には3人目の夫となるリック・エヴァーズと結婚したが、翌年リックの麻薬禍により死別している。
生い立ちと教育

キングは、1942年2月9日、ニューヨーク市マンハッタンユダヤ人家庭にキャロル・クラインとして生まれた[6][7][8][9]。彼女の母親、ユージニア(旧姓カマー)は教師であり、父親のシドニー・N.クラインはニューヨーク市消防局の消防士だった[10][11]。化学を専攻したシドニーと英語と演劇を専攻したユージニアは、1936年にブルックリン・カレッジの学生時代にエレベーターで出会った[12]:10。

彼らは大恐慌の終盤の1937年に結婚した[12]:10。ユージニアは大学を中退して世帯を切り盛りし、シドニーも大学を辞めてラジオアナウンサーとして短時間就職した[12]:10。経済的に苦しい中、シドニーはより安定した職業としてニューヨークで消防士となった[12]:10。キングが生まれた後も彼らはブルックリンに残り、最終的に彼らは収入のために二階を貸すことができる小さな二階建ての二世帯住宅を買うことができた[13][14]

ユージニアは子供の頃にピアノを弾く方法を学び、ピアノを買ってから練習することもあった。キャロルは約3歳の頃から音楽に飽くなき好奇心を持っていたため、母親は非常に基本的なピアノの弾き方を教え始めたが、キャロルに実際的なレッスンは行わなかった。[12]:14

両親はキャロルが4歳のときに音を聞くだけで音符に正確に名前を付けることができる絶対音感の持ち主であることに気が付いた[12]:14[15]。シドニーは訪問してきた友人に娘の特技を披露して楽しんだ:「私の父の笑顔は非常に広く、顔の下半分を包み込んでいた。父を幸せにし、音を正しくあてて楽しんだ。」[12]:15。

キャロルの母親は、キャロルが4歳のときに本格的な音楽レッスンを始めた[12]:16。キャロルはスツールに登り、電話帳に座ってさらに高い所に座った[16]。キャロルは母親と一緒に座って楽譜の読み方や適切な音符のタイミングの取り方など、音楽理論と初歩的なピアノ技術を教わった。キングはできるだけ多くを学びたかった:「母は私に練習を強要したことはありません。彼女はする必要はありませんでした。ラジオから流れ出た人気曲をマスターしたかったのです。」[12]:16

キャロルは4歳の時に幼稚園に通い始めたが、言葉と数字の並外れた資質を持っていたので、直接2年生に昇級した[12]:16。1950年代、彼女はジェームズ・マディソン高校に通った。キングはCo-Sinesと呼ばれるバンドを結成し、Carol KleinからCarole Kingに改名し、1セッション25ドルで友人のポール・サイモンとデモレコードを作成した。[17][18] 彼女の最初の公式録音は、1958年にABCパラマウントからリリースされたプロモーションシングルThe Right Girlで、自身が書いた曲をドン・コスタの編曲で歌った[19]。しかしながら、その後ABCやRCAなどに残した4作のシングルは何れも失敗に終わり、一旦歌手としてのキャリアは頓挫することとなった。

キングはクイーンズカレッジに通学し、そこでソングライターとしてのパートナーとなるジェリー・ゴフィンと出会った。二人はキングが最初の娘ルイーズを妊娠した後で、キングが17歳の時に1959年8月、ロングアイランドでのユダヤ教の式典に則って結婚した。[20][21] 二人は大学を辞め、昼間の仕事に就き、ゴフィンは化学助手、キングは秘書として働いていた[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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