キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド
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キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド
別名キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド(1964年-1969年)
出身地
アメリカ合衆国カリフォルニア州ランカスター
ジャンルロック
活動期間1964年 - 1982年
レーベルA&Mレコード
ブッダ・レコード
ブルー・サム・レコード
ストレイト・レコード
リプリーズ・レコード
マーキュリー・レコード
ヴァージン・レコード

旧メンバードン・ヴァン・ヴリート(キャプテン・ビーフハート)
ライ・クーダー
その他多数

キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド (Captain Beefheart and The Magic Band) は、1964年から1982年まで活動したアメリカ合衆国ロックバンドである。キャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートに率いられて、彼の作品を演奏した。

結成時から1969年までの名前は、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド (Captain Beefheart and His Magic Band) だった。
概要
活動と評価

キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドは、約18年間の活動期間中、ブルース・ロックを基調としつつ、サイケデリック・ロックやフリー・ジャズを取り入れた、極めてユニークな作品を発表し続けた。彼等はヴァン・ヴリートの個性的かつ強権的なバンド運営やレコード会社との軋轢にも影響され、メンバー・チェンジを繰り返した後、1974年に解散状態に陥ったが、1978年にメンバーを一新して再結成され、再び意欲的な作品を発表した。

代表作の一つに挙げられる2枚組の大作『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、イギリスBBCの著名なDJであるジョン・ピールから「大衆音楽の歴史の中で、音楽家以外の芸術家からも理解され芸術であると見なされうる作品があるとすれば、まさにこの作品である」と絶賛され[1]、1970年代後半のパンク・ロック世代のミュージシャンにも影響を与えた[2][注釈 1]

本国アメリカでの知名度は決して低くはなかった[注釈 2][3]が、音楽雑誌での好意的な評価とは裏腹に商業的な成功には縁がなく、チャート入りしたアルバムは1作もなかった[4]。彼等はアメリカよりもヨーロッパで熱狂的に迎えられ[注釈 3][5]、1969年10月にベルギーのアムージで開かれたFestival d'Amougies[注釈 4][6]、1972年5月にイギリスのグレーター・マンチェスターウィガンで開かれたビッカーショー・フェスティバル[7]、1975年7月5日に開かれた第2回ネブワース・フェスティバル[8]などに出演したほか、イギリス、フランス、ドイツのテレビ番組やラジオ番組にも多く出演した[注釈 5]

1982年にアルバム『烏と案山子とアイスクリーム』が発表された後は、2010年にヴァン・ヴリートが病没するまで、新作アルバムの発表やコンサートなどの活動は一切なかった。ヴァン・ヴリートの解散宣言もなく、彼が画家としての活動[注釈 6]に専念し始めたことに伴なって自然消滅していったと考えられている[9]
バンド名

キャプテン・ビーフハートとは、フランク・ザッパが1964年にクカモンガスタジオZ[注釈 7]でヴァン・ヴリート[注釈 8]と共同で制作していた低予算のSF映画の登場人物名である[10][11][注釈 9]。彼等はカリフォルニア州ランカスターのアンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生で[注釈 10]、ザッパがCaptain Beefheart vs. The Grunt People[12]という映画の台本を書いて、ヴァン・ヴリートが魔力を発揮するキャプテン・ビーフハートというマジック・マンを演じる計画だった[注釈 11]

結成時のバンド名はキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド[注釈 12]だった。


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