キャプテンファンク
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オオエ タツヤ
別名キャプテン・ファンク
Captain Funk
Dark Model

OE(オーイー)
生誕1969年
出身地 日本 広島県
学歴東京大学卒業
ジャンルエレクトロニカ
テクノ
ハウス
エピック
サウンドトラック
職業音楽プロデューサー作曲家DJ
レーベルModel Electronic
事務所モデル・エレクトロニック
公式サイト ⇒Tatsuya Oe Official Website

オオエ タツヤ(Tatsuya Oe、1969年 - )は、アメリカ在住の日本人音楽家作曲家編曲家音楽プロデューサーDJ。オオエはエレクトロニックミュージックから、ダンスミュージック、ロック、ポップ、サウンドトラックまでも手掛け、その卓越した音楽制作能力と単一の音楽ジャンルにとどまらない多様性が高く評価されている。大半の作品において作曲から演奏、ミキシング、マスタリングまでをこなす。Captain Funk、(Tatsuya) OE、Dark Modelといったアーティスト名義でのリリース活動に加えて、オオエの手掛けた作品はアメリカ、ヨーロッパ、アジア市場においてテレビ番組、映画、ハリウッド作品の予告編、テレビゲーム、アニメーション、そして企業広告で頻繁に採用、またライセンス使用されている。

ジェームス・ブラウン, ダイアナ・ロス, シック (バンド), サイモン・ル・ボン, ロン・セクスミス, セルジュ・ゲンスブールなど、数多くのアーティスト作品のリミックスやコラボレーション、プロデュースをこなし、「Remix Wizard(リミックスの魔術師)」とも呼ばれている[1]

2007年に楽曲提供したPanasonicグローバル・ブランディング映像『Experience Color』[2]はニューヨーク・フェスティバルにてファイナリスト・アワード、ウェビー賞で2部門のOfficial Honoree、東京インタラクティブ・アド・アワードにてシルバー・アワードを受賞した。2013年、米国永住権(EB-1) を取得後、9月よりニューヨークに移住、活動の拠点を米国に移した。渡米後リリースした新プロジェクトDark Modelのアルバムは第14回インディペンデント・ミュージック・アワード (The IMAs、2015年「ダンス/エレクトロニカ・アルバム」部門にノミネートされ、2018年4月、セカンドアルバム『SAGA』は第16回同アワードの「ベスト・ダンス/エレクトロニカ・アルバム」を受賞した。[3]
経歴
生い立ちと初期のキャリア

1969年広島県に生まれる。12歳の時ロック (音楽)ポップ、そしてエレクトロニック・ミュージックに興味を示し、14歳の時に最初のエレクトリック・ギターシンセサイザーミュージックシーケンサーを購入。中学・高校時代にはロック、シンセポップニュー・ウェイヴヘヴィメタルプログレッシブ・ロックなどを演奏するバンドを幾つか結成した。ファンクミュージックとの出会いは高校時代で、ジェイムズ・ブラウンプリンスに代表されるファンクサウンドに触れたことがきっかけとなる[4]。その後10 代後半にDJとしてオーディエンスの前で演奏する楽しさに出会い、ファンク、レア・グルーヴディスコハウスヒップホップなどのダンス・ミュージックにさらに魅了され積極的に活動を続ける[5][6]
Captain Funkの誕生と初期活動

東京大学経済学部を卒業後、大手広告代理店の電通在籍中にコンピューターを使った作曲・音楽制作を本格的に開始する。1990年代半ばの日本においてエレクトロニックミュージックへの理解は薄く、またマーケットとしても十分には成熟していなかった。そのためオオエは当時、昼間は会社勤め、夜はDJ活動という生活を続けている[7]

1997年、ヨーロッパの幾つかのレーベルからのオファーを受けつつも、イタリアのダンス・レーベルACVよりTATSUYA OE名義『Dazzilin’』[8]をリリースする。1998年 には、ソロ・プロジェクトであるCAPTAIN FUNKの名義でファースト・アルバム『Encounter with…』をリリース。黒人音楽からパンクロックまで幅広いルーツを背景にコンピューター、鍵盤、ギターまで様々な楽器を操り、エレクトロニック・ミュージックの中でも日本人離れしたグルーヴと高揚感を持ったテイストで当時のクラブシーン新風を吹き込んだと言われている[9]

1999年には、Captain Funkの知名度は特に欧米のクラブシーンにおいて急激に高まりを見せる。イギリス大手ダンス・レーベルであるミニストリー・オブ・サウンドは、彼らの雑誌で「Captain Funk will make you believe!(キャプテン・ファンクは信用できる!)」と評している。またタイムアウト誌は彼の音楽を「Vibrant delight!(震えが起こるほどの感動!)」と描写。 ノーマン・クック(ファットボーイ・スリム)はオオエの音楽を「何という狂ったレコードなんだ!!(What a f***ing insane record)。とても気に入ったよ。忘れずにプレイするからもう2枚レコードを送ってくれないか?」とコメントし、所属レーベルに直筆ファックスが送られてきたというエピソードがよく知られている[10]

デビューから1年後、オオエの知名度が高まるにつれて、オオエの楽曲を自らのDJに使用するアーティストも増加する。ファットボーイ・スリムのみならず、コールドカットNinja Tune、サイベグ、フレディ・フレッシュ、ケン・イシイ、カール・コックス(Captain Funk 「O.Y.M」を自らのDJ Mix CD「Carl Cox Non Stop 98/01」に収録)ら世界中のDJ・メディアから認知され評価を受けるようになり、ファースト・アルバムである『Encounter With...』やシングル『Bustin' Loose EP』に収録されている楽曲が、数多くの海外コンピレーションに二次使用されるようになる。

同1999年は楽曲制作活動も活発であり、『Bustin’ Loose EP』、『Dancing in the Street'』、 DJミックスCD『Style』をリリースする。2000年にリリースされた、Captain Funk名義でのフルアルバム『Songs of the Siren』[11]は米 ビルボード誌アジア部門の「THE YEAR IN MUSIC 」に選出された[12][13]

認知度の高まりと比例し活発になる楽曲制作活動の傍ら、オオエはパーティー、イベントにおいても精力的にDJ及びライブ活動も行う。フジロック・フェスティバル1999年、2000年、2007年参加)[14]ROCK IN JAPAN FESTIVAL (2006年参加)のような日本での大型音楽イベントに加え、国外においてもイギリスの「Turnmills(ターンミルズ)」「Heaven (nightclub)(ヘヴン)」、フランス(「Global Tekno」、「Festival de Saint-Nolff」)、ドイツ、香港、シンガポール(「Zouk」)、韓国などのパーティー、イベントで活躍した。

フランスドイツにおいてもCaptain Funkの名を知る人は多く、1998年デビュー直後には既に同時期にデビューしたボブ・サンクラーや、エイフェックス・ツインダフト・パンクの出演したフランス初の大規模エレクトロニック・ミュージックフェスティバル「Global Tekno」に唯一の日本人アーティストとして招待されライブ出演している[15]
OE(オー・イー)名義での活動の開始


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