キャピトル・リーフ国立公園
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キャピトル・リーフ国立公園
IUCNカテゴリII国立公園
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地域アメリカ合衆国ユタ州
最寄りトリー
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度12分0秒 西経111度10分0秒 / 北緯38.20000度 西経111.16667度 / 38.20000; -111.16667座標: 北緯38度12分0秒 西経111度10分0秒 / 北緯38.20000度 西経111.16667度 / 38.20000; -111.16667
面積978.95 km2
創立日1971年12月18日
訪問者数511,511人(2006年
運営組織アメリカ合衆国国立公園局

キャピトル・リーフ国立公園(キャピトル・リーフこくりつこうえん、Capitol Reef National Park)は、ユタ州南央部の米国国立公園である。長さは160km(100マイル)で、かなり細長い。公園の設立は1971年、面積は979 km2(378平方マイル)。年間を通して開いているが、最も人気の季節は5月から9月までである。

キャピトル・リーフ国立公園は、地元の篤志家(英語版原文は、booster)であるエフライム・P・ペクトル (Ephraim P. Pectol) とジョセフ・S・ヒックマン (Joseph S. Hickman) によって1920年代に「ウエイン・ワンダーランド」 ("Wayne Wonderland") と呼ばれた。色とりどりの峡谷、尾根、切り立った丘、石柱を保護している。ウォーターポケット褶曲 (Waterpocket Fold) と呼ばれる約120 km(75 マイル)の長い隆起は、サウザンド・レイク山 (Thousand Lake Mountain) から南方にパウエル湖 (Lake Powell) までごつごつした背骨のように延び、公園の境界内で保護されている。キャピトル・リーフは、フレモント川 (Fremont River) 近くの特にごつごつして壮大なウォーターポケット褶曲の一部の名前である。この地域は、ウォーターポケット褶曲上をフレモント川 (Fremont River) からプレザント川 (Pleasant Creek) まで続くナバホ砂岩の白いドーム‐多少米国国会議事堂ビルのようにみえる‐に因んで名付けられた。地元の言葉の リーフ は、旅の妨げとなる岩の障害物を指す。[要出典]

わずか数十年前まで、キャピトル・リーフとウォーターポケット褶曲のある場所は、米国本土の片田舎の一つであった。1962年に、フレモント川峡谷を通る舗装されたユタ州道24号線の建設によって、行きやすい場所となった。
地理ウォーターポケット褶曲 (Waterpocket Fold)

キャピトル・リーフには、ウォーターポケット褶曲、すなわち6,500万歳の地殻のしわがある。この褶曲の中で、新旧の地層が互いにS字形に折り重なっている。このしわは、おそらくロッキー山脈を造り出したものと同じ大陸プレートの衝突が原因でできたもので、数千年もの長きにわたり風雨にさらされ、浸食を受け、岩石層と化石を露出している。公園は、鮮やかな色をした砂岩の崖、輝く白いドーム、対照的な石と土の層で満ちている。

この地域は、ウォーターポケット褶曲上をフレモント川 (Fremont River) からプレザント川 (Pleasant Creek) まで続くナバホ砂岩の白いドーム‐多少米国国会議事堂ビルのようにみえる‐に因んで名付けられた。

この褶曲は、南北に走る障害物となり、今日でもほとんど道路が通っていない。初期の開拓者は、平行な通り抜けられない尾根を「リーフ」と呼んだ。ここから公園の後ろ半分の名が付いた。1962年、この地を通る最初の舗装道路が建設された。今日では、ユタ州道24号線が、公園を横切りキャニオンランズ国立公園ブライス・キャニオン国立公園の間を東西に走るが、起伏の激しい風景を侵す舗装道路はそれ以外にはほとんどない。

公園には多くの峡谷、崖、塔、ドーム、橋がある。フレモント川はウォーターポケット褶曲の一部に峡谷を切り開いているが、公園のほとんどは乾燥した砂漠である。眺めの良い自動車道が、観光客をいくつかの見所へと案内するが、その道は主要幹線道路からわずか数マイルしか延びていない。数百マイルの歩道や未舗装道路が、より冒険好きな人を同じく眺めの良い奥地へと導く。
歴史
インディアンとモルモン教徒

フレモント文化期のインディアンが、西暦1000年頃、キャピトル・リーフ・ウォーターポケット褶曲の北部の年間を通じて流れるフレモント川の近くに住んでいた。彼等は灌漑によりレンズマメトウモロコシカボチャを栽培し、穀物を石でできた穀物倉に貯蔵した(一部はその地に散らばる夥しい黒い玄武岩の巨石で造られた)。13世紀に、この地域のすべてのインディアンの文化は、おそらくは長期の旱魃のために、急激な変化を経験した。[要出典]フレモント人の入植地と田畑は放棄された。

フレモント人が去った後何年もしてから、パイユート族がこの地に移り住んだ。これらのヌーミック語を話す人々は、フレモントの穀物倉を「モキの小屋」 (moki huts) と名づけ、小人、すなわち「モキ」族の家と考えた。

1872年、アラン・H・トンプソン (Alan H. Thompson) は、アメリカ陸軍ジョン・ウェズリー・パウエル (John Wesely Powell) 少佐の探検に測量技師として参加し、その地の調査時にウォーターポケット褶曲を横切った。その後、地質学者クラレンス・ダットン (Clarence Dutton) は、地域の地質を研究するため幾度かの夏を費やした。しかしながら、いずれの探検もウォーターポケット褶曲をあまり詳しく調査しなかった。それは、今となっては、信じられないほど洗練されておらず、許されないものであった。公園内にある岩絵

南北戦争の後、ソルトレイクシティ末日聖徒イエス・キリスト教会の人々は、インターマウンテン・ウエストと呼ばれるロッキー山脈とカスケード山脈、シエラネバダ山脈の間の非常に辺鄙な場所に「伝道本部」を設立しようとした。1866年、先住民を襲撃するため、モルモン教徒の準軍事遠征隊が、西方の奥地にある谷まで侵入した。1870年代、開拓者はこれらの谷に移り住み、結局はロア (Loa) 、フレモント、ライマン (Lyman) 、ビックネル (Bicknell) 、トリー (Torrey) の町を築いた。

モルモン教徒は、1880年代には、フレモント渓谷 (Fremont River valley) に定住し、ジャンクション (Junction) (後の「フルータ」 (Fruita) )、 ケインヴィル (Caineville) 、アルドリッジ (Aldridge) の町を築いた。フルータは栄え、ケインヴィルはかろうじて生き延び、アルドリッジは滅んだ。20世紀初めには、農耕に加え、石灰石から石灰が抽出されたり、ウランが採掘されていた。1904年、この地のウラン鉱床の採掘権が初めて主張された。その結果できたグランド・ウォッシュ (Grand Wash) のオリアー鉱山 (Olyer Mine) は、ウラン鉱石を産出した。

1920年まで、仕事は大変だったが、フルータでの暮らしは悪くなかった[要出典]。フレモント川の肥沃な氾濫原では同時に10以上の家族を維持できず、年を重ねるにつれ、土地の所有者は変わった。地域は孤立したままだった。集落は後に放棄され、さらにその後、いくつかの建物が国立公園局によって復元された。かつて石灰を生産するために用いられたキルンが、サルファー川 (Sulphur Creek) の中とシーニック・ドライブ (Scenic Drive) のキャンプ場の近くでまだ見られる。 たくさんある白い砂岩ドームのうちのいくつか
初期における保護の試み

地元のエフライム・ポーター・ペクトルは、1921年、「ブースター・クラブ」 (Boosters Club) をトリーの町で組織した。ペクトルは、雑誌や新聞に送るための情報を供給し、宣伝キャンペーンを行った。キャンペーンを行う中で、彼は、次第に義理の兄弟であるジョセフ・S・ヒックマンによって支援を受けるようになった。ヒックマンは、ウエイン郡高校 (Wayne County High School) の校長であった。1924年、ヒックマンは、ウエイン郡全体のウエイン・ワンダーランド・クラブを組織し、地域社会を宣伝の努力に巻き込んだ。同じ年、ヒックマンはユタ州議会議員に選ばれた。

ペクトルは、ウエイン・ワンダーランド・クラブを受け継いだ南ユタ・アソシエイテッド・シヴィックス・クラブ (Associated Civics Club of Southern Utah) の主宰者に選ばれた。クラブは、ソルトレイク・シティの写真家を一連の宣伝用の写真撮影に関与させるため150ドルの寄付金を集めた。数年間にわたり、その写真家 - J・E・ブローダス (J.E. Broaddus) - は、「ウエイン・ワンダーランド」を旅し、講演した。

1933年、ペクトル自身は州議会議員に選ばれ、ほぼその直後にフランクリン・ルーズベルト大統領に連絡を取り、キャピトル・リーフ地域の大半を成す連邦政府の土地から「ウエイン・ワンダーランド国定公園」("Wayne Wonderland National Monument") を創設することを依頼した。連邦政府機関は、予備調査と境界の評価を始めた。その間、ペクトルは政府の調査官を数多くの旅行に案内し、増え続ける訪問者をエスコートした。


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