キャピトル・リーフ国立公園
IUCNカテゴリII(国立公園)
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地域アメリカ合衆国ユタ州
最寄りトリー
キャピトル・リーフ国立公園(キャピトル・リーフこくりつこうえん、Capitol Reef National Park)は、ユタ州南央部の米国の国立公園である。長さは160km(100マイル)で、かなり細長い。公園の設立は1971年、面積は979 km2(378平方マイル)。年間を通して開いているが、最も人気の季節は5月から9月までである。
キャピトル・リーフ国立公園は、地元の篤志家(英語版原文は、booster)であるエフライム・P・ペクトル (Ephraim P. Pectol) とジョセフ・S・ヒックマン (Joseph S. Hickman) によって1920年代に「ウエイン・ワンダーランド」 ("Wayne Wonderland") と呼ばれた。色とりどりの峡谷、尾根、切り立った丘、石柱を保護している。ウォーターポケット褶曲 (Waterpocket Fold) と呼ばれる約120 km(75 マイル)の長い隆起は、サウザンド・レイク山 (Thousand Lake Mountain) から南方にパウエル湖 (Lake Powell) までごつごつした背骨のように延び、公園の境界内で保護されている。キャピトル・リーフは、フレモント川 (Fremont River) 近くの特にごつごつして壮大なウォーターポケット褶曲の一部の名前である。この地域は、ウォーターポケット褶曲上をフレモント川 (Fremont River) からプレザント川 (Pleasant Creek) まで続くナバホ砂岩の白いドームと崖‐多少米国国会議事堂ビルのようにみえる‐に因んで名付けられた。地元の言葉の リーフ は、旅の妨げとなる岩の障害物を指す。[要出典]
わずか数十年前まで、キャピトル・リーフとウォーターポケット褶曲のある場所は、米国本土の片田舎の一つであった。1962年に、フレモント川峡谷を通る舗装されたユタ州道24号線の建設によって、行きやすい場所となった。
地理ウォーターポケット褶曲 (Waterpocket Fold)
キャピトル・リーフには、ウォーターポケット褶曲、すなわち6,500万歳の地殻のしわがある。この褶曲の中で、新旧の地層が互いにS字形に折り重なっている。このしわは、おそらくロッキー山脈を造り出したものと同じ大陸プレートの衝突が原因でできたもので、数千年もの長きにわたり風雨にさらされ、浸食を受け、岩石層と化石を露出している。公園は、鮮やかな色をした砂岩の崖、輝く白いドーム、対照的な石と土の層で満ちている。
この地域は、ウォーターポケット褶曲上をフレモント川 (Fremont River) からプレザント川 (Pleasant Creek) まで続くナバホ砂岩の白いドームと崖‐多少米国国会議事堂ビルのようにみえる‐に因んで名付けられた。
この褶曲は、南北に走る障害物となり、今日でもほとんど道路が通っていない。初期の開拓者は、平行な通り抜けられない尾根を「リーフ」と呼んだ。ここから公園の後ろ半分の名が付いた。1962年、この地を通る最初の舗装道路が建設された。今日では、ユタ州道24号線が、公園を横切りキャニオンランズ国立公園とブライス・キャニオン国立公園の間を東西に走るが、起伏の激しい風景を侵す舗装道路はそれ以外にはほとんどない。
公園には多くの峡谷、崖、塔、ドーム、橋がある。フレモント川はウォーターポケット褶曲の一部に峡谷を切り開いているが、公園のほとんどは乾燥した砂漠である。眺めの良い自動車道が、観光客をいくつかの見所へと案内するが、その道は主要幹線道路からわずか数マイルしか延びていない。数百マイルの歩道や未舗装道路が、より冒険好きな人を同じく眺めの良い奥地へと導く。 フレモント文化
歴史
インディアンとモルモン教徒
フレモント人が去った後何年もしてから、パイユート族がこの地に移り住んだ。これらのヌーミック語を話す人々は、フレモントの穀物倉を「モキの小屋」 (moki huts) と名づけ、小人、すなわち「モキ」族の家と考えた。
1872年、アラン・H・トンプソン (Alan H. Thompson) は、アメリカ陸軍ジョン・ウェズリー・パウエル (John Wesely Powell) 少佐の探検に測量技師として参加し、その地の調査時にウォーターポケット褶曲を横切った。その後、地質学者クラレンス・ダットン (Clarence Dutton) は、地域の地質を研究するため幾度かの夏を費やした。しかしながら、いずれの探検もウォーターポケット褶曲をあまり詳しく調査しなかった。それは、今となっては、信じられないほど洗練されておらず、許されないものであった。公園内にある岩絵
南北戦争の後、ソルトレイクシティの末日聖徒イエス・キリスト教会の人々は、インターマウンテン・ウエストと呼ばれるロッキー山脈とカスケード山脈、シエラネバダ山脈の間の非常に辺鄙な場所に「伝道本部」を設立しようとした。1866年、先住民を襲撃するため、モルモン教徒の準軍事遠征隊が、西方の奥地にある谷まで侵入した。1870年代、開拓者はこれらの谷に移り住み、結局はロア (Loa) 、フレモント、ライマン (Lyman) 、ビックネル (Bicknell) 、トリー (Torrey) の町を築いた。
モルモン教徒は、1880年代には、フレモント渓谷 (Fremont River valley) に定住し、ジャンクション (Junction) (後の「フルータ」 (Fruita) )、 ケインヴィル (Caineville) 、アルドリッジ (Aldridge) の町を築いた。フルータは栄え、ケインヴィルはかろうじて生き延び、アルドリッジは滅んだ。20世紀初めには、農耕に加え、石灰石から石灰が抽出されたり、ウランが採掘されていた。1904年、この地のウラン鉱床の採掘権が初めて主張された。その結果できたグランド・ウォッシュ (Grand Wash) のオリアー鉱山 (Olyer Mine) は、ウラン鉱石を産出した。
1920年まで、仕事は大変だったが、フルータでの暮らしは悪くなかった[要出典]。フレモント川の肥沃な氾濫原では同時に10以上の家族を維持できず、年を重ねるにつれ、土地の所有者は変わった。地域は孤立したままだった。集落は後に放棄され、さらにその後、いくつかの建物が国立公園局によって復元された。かつて石灰を生産するために用いられたキルンが、サルファー川 (Sulphur Creek) の中とシーニック・ドライブ (Scenic Drive) のキャンプ場の近くでまだ見られる。 たくさんある白い砂岩ドームのうちのいくつか 地元のエフライム・ポーター・ペクトル
初期における保護の試み
ペクトルは、ウエイン・ワンダーランド・クラブを受け継いだ南ユタ・アソシエイテッド・シヴィックス・クラブ (Associated Civics Club of Southern Utah) の主宰者に選ばれた。クラブは、ソルトレイク・シティの写真家を一連の宣伝用の写真撮影に関与させるため150ドルの寄付金を集めた。数年間にわたり、その写真家 - J・E・ブローダス (J.E. Broaddus) - は、「ウエイン・ワンダーランド」を旅し、講演した。
1933年、ペクトル自身は州議会議員に選ばれ、ほぼその直後にフランクリン・ルーズベルト大統領に連絡を取り、キャピトル・リーフ地域の大半を成す連邦政府の土地から「ウエイン・ワンダーランド国定公園」("Wayne Wonderland National Monument") を創設することを依頼した。連邦政府機関は、予備調査と境界の評価を始めた。その間、ペクトルは政府の調査官を数多くの旅行に案内し、増え続ける訪問者をエスコートした。