キャデラック
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、自動車について説明しています。その他の用法については「キャデラック (曖昧さ回避)」をご覧ください。

キャデラック
Cadillac
種類自動車
所持会社ゼネラルモーターズ
使用開始国 アメリカ合衆国
使用開始1902年
ウェブサイトhttps://www.cadillac.com
テンプレートを表示
キャデラック・プレジデンシャル・リムジン(アメリカ大統領専用車仕様)キャデラック・エスカレード

キャデラック(: Cadillac)は、アメリカの自動車メーカーであるゼネラルモーターズが展開している高級車ブランドである。略称はキャディ(: Caddy)。
概要キャデラック・フリートウッド、中華民国?介石総統専用車(1954年型)

イギリスロールス・ロイスドイツメルセデス・ベンツ、アメリカのリンカーン日本レクサスなどと並び、アメリカのみならず、世界を代表する高級車ブランドとして知られている。

また、アメリカ大統領専用車として第一次世界大戦当時のウッドロウ・ウィルソンから、現在のジョー・バイデンに至るまで、長年に亘りライバルのパッカード(現在は消滅)やリンカーンとともに使用されている他、多数の国で王侯貴族や政府指導者の専用車として採用され、富裕層にも愛好されている。

キャデラックは長らくアメリカ本国市場がメインであり、一般ユーザー向けの販売に関しては、正規の輸出が事実上隣国のカナダ日本中華民国フィリピンなどの一部の東アジア諸国と、サウジアラビアクウェートアラブ首長国連邦などの親米的な中東諸国のみだったが、1990年代後半からヨーロッパ諸国への本格的進出を試みるようになった。なお、それまでも多くの車種がイギリスフランスドイツなどへ並行輸入されている。

また、同時期に日本やイギリス向けに右ハンドル仕様車(セヴィル)を投入し、話題となった。2000年代には中華人民共和国ロシアなどの経済成長が著しい新興諸国にも進出。2007年には日本やイギリスと同じく右ハンドル・左側通行の南アフリカ共和国にも進出している。
沿革
設立モデルA(1903年)モデルM(1906年)57V8(1917年)

1899年ヘンリー・フォードを擁してヘンリー・フォード・カンパニーが設立されたが、フォードは経営陣との対立で会社を去り、1902年、機械メーカーの工場長であったヘンリー・マーティン・リーランドが請われて後任となった。

デトロイトを開拓したフランス貴族アントワーヌ・ロメ・ドゥ・ラ・モト・スィゥール・ドゥ・カディヤック (Antoine Laumet de La Mothe, sieur de Cadillac) に因んで社名とブランドを「キャデラック」に変更し、1902年10月に一号車を完成し、1903年から自動車の本格生産を開始した。

Cadillac 6 1/2HP Tonneau 1903

Cadillac 8 1/4HP Surrey 1904

Cadillac 10HP Tonneau 1904

Cadillac 6 1/2HP Rear-entrancetonneau 1904

Cadillac 8 1/4HP Detachable-toplimousine 1904

Cadillac 8 1/4HP Tonneau 1904

Cadillac 8 1/4HP Tonneau 1904

Cadillac 8 1/2HP Tonneau 1904

Cadillac 10HP Tonneau 1904

Cadillac 9HP Limousine

高品質

リーランドは精密加工技術の権威であり、その指導のもとに作られたキャデラックは高品質であるだけでなく、黎明期に手作りで作られていた自動車の欠点であった部品互換性の悪さを最初に克服した自動車の一つとなった。1908年には、イギリス王立自動車クラブ(RAC)による部品互換性テストに合格して、RACから「デュワー・トロフィー」を受賞している。

1909年にはゼネラルモーターズ(GM)の設立者であるウィリアム・C・デュラントの求めに応じてGMグループ入りし、以後はGMの最高級レンジを担うモデルとして生産されている。
リーランドの離別

リーランドは第一次世界大戦中に連合国軍を応援するための軍需品製作をしないGMに愛想を尽かし、リバティエンジンを製作するために自身でリンカーン社を設立した。

この会社は第一次大戦後高級車を製作したが、すでに大衆車の時代でありフォード・モーターに破格の値段で買収され、フォードの経営の元で安定を得、ブランドとしてキャデラックのライバルとなった。
先進技術の採用

キャデラックの特徴として、古くより、先進技術を積極的に取り入れたことが挙げられる。特に、世界初の実用的なセルフスターターの搭載(1912年)は初期における顕著な功績である。

これ以降にも、世界初の量産V型8気筒エンジンやV型16気筒エンジン、シンクロメッシュギアボックスダブルウィッシュボーン式前輪独立懸架の実用化、パワーステアリングヘッドランプの自動調光システム、エア・コンディショナーの搭載など、近代の乗用車の技術革新に大いに貢献し、これらの新技術はのちにヨーロッパ日本をはじめとする世界各国の自動車会社が模倣するようになった。なお、キャデラックは世界で唯一「デュワー・トロフィー」を2回受賞した会社となった。
高級車の代名詞モデル314(1926年)V16ロードスター(1931年)ラ・サール・38クーペ(1938年)75セダン(1940年)

これらの世界の最先端を行く先進技術の導入により、世界各国で高いブランドイメージを確立した1920年代から1930年代にかけては、歴代のアメリカ大統領や各国の貴族から、ベーブ・ルースジョー・ルイスなどのスポーツ選手、更にアル・カポネのようなマフィアまでが愛用し、ヨーロッパのロールス・ロイスやイスパノ・スイザ、アメリカのデューセンバーグやパッカードなどと並び、高級車の代名詞的存在となった[注釈 1]

これらの裕福なオーナーの多くは、V型16気筒エンジンを搭載したシャシにそれぞれのお気に入りのコーチワーカーでボディを架装し、同時に上記のような最新技術をオプションで装備させ、自らの好みの1台に仕上げた上にコンクール・デレガンスに出品し、その豪華さを競い合った。
「ラ・サール」

1928年からは兄弟ブランドである「ラ・サール」を設立し、年々豪華さを増してゆくキャデラックより内外装の装飾を簡略化した廉価なモデルを発売することで、新たなユーザー層の獲得を狙った。

当初より販売は好調で、ラインナップを増やしていったものの、ビュイックオールズモビルなどの、GMグループ内の他の中位ブランドとの競合などの理由から1940年に廃止された。
大恐慌

1930年には世界初の乗用車向けV型16気筒エンジンを発売し、ラインナップを拡充したものの、前年に起きた世界大恐慌により1930年代前半の販売台数は、他の自動車会社とともに低迷を続けることとなった。

しかしその後、フランクリン・ルーズベルト政権によるニューディール政策の導入などにより、アメリカ国内の経済が回復してきた1930年代後半にはその販売台数は回復し、流麗な大型ボディにV型8気筒V型12気筒の大排気量エンジンを搭載した高級車を作り続けた。
第二次世界大戦

好調な販売を続けるかに思えたものの、1939年9月の第二次世界大戦開戦と1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦により、アメリカが戦時体制下に入ったことを受けて新モデルの開発は凍結されることとなった。さらに戦時体制下で燃料の配給制が導入されたことを受けて、燃費に難があるV型16気筒エンジンも廃止されることとなった。

なお、第二次世界大戦中においても、アメリカ政府の上層部をはじめ、ドワイト・D・アイゼンハワーダグラス・マッカーサーなどのアメリカ軍の指導部もキャデラックを利用していたこともあり、モデルチェンジを行わないまま少数の生産が続けられた。
戦後型シリーズ62クラブクーペ(1948年)

1945年8月の第二次世界大戦の終戦後暫くは、戦前型のマイナーチェンジモデルを作り続けることとなったが、初の本格的な戦後型として終戦直前より1から開発された1948年型は、当時のGMのデザイン担当副社長のハーリー・アールの薫陶を受けたフランクリン・Q・ハーシェーによって、自動車業界初の曲面ガラスとピラーレスハードトップ、そしてロッキードP-38戦闘機をモチーフにし、その後世界的に流行したテールフィンを備えた先進的なデザインを施され、大きな反響を呼んだ。

なおこの頃より、当時のGMの会長であるアルフレッド・スローンによって発案され1949年から開始された、GMが自社のコンセプトカーをアメリカ国内にくまなく展示するために開催した巡回式モーターショーである「モトラマ」向けに開発したコンセプトカーのデザインを取り入れることが多くなった。

また、好景気による販売台数の増加や新技術の進展を受けて、「イヤーモデル」というかたちで、「モトラマ」で発表された新デザインのモチーフを取り入れた意匠変更や、新技術の導入を行ったモデルチェンジをほぼ毎年行うようになった。
絶頂期エルドラド セビル(1957年)シリーズ62コンバーチブル(1959年)フリートウッド エルドラド(1966年)

さらに1950年代に入ると、クロームメッキを多用した「ダグマー・バンパー」と呼ばれるバンパー一体型のフロントグリルやデュアルヘッドランプ、更に巨大化したテールフィンなどの豪奢なエクステリア・デザインと、エア・サスペンションパワーステアリング、電動トランクオープナー/クローザー、自動調光ヘッドランプなどの当時の最新技術を備えた新型モデルを、矢継ぎ早に市場に投入した。

特にビル・ミッチェル(Bill Mitchell)、チャック・ジョーダン(Chuck Jordan)、デイブ・ホールスの指導の下、ジェット戦闘機ロケットをイメージしてスタイリングされた、6メートル近い全長に巨大なテールフィンとデュアルヘッドランプ、クロームメッキとホワイトウォールタイヤを備えた1959年型は、好景気に沸く1950年代のアメリカのアイコンの1つとなった。

ハーリー・アールの後を継いでビル・ミッチェルがデザイン担当副社長となった直後の1960年型からは、これまでとは打って変わって巨大なテールフィンや過剰なクロームメッキは姿を消したものの(巨大なテールフィンについては、消費者団体などからの批判があったことから、1960年代前半には他のブランドでも一斉に姿を消した)、イタリアカロッツェリアであるピニンファリーナとのコラボレーションにより様々なショーモデルを発表し続け、そのデザインを市販車にも流用した。

特に1960年に就任したジョン・F・ケネディ大統領のファーストレディで、当時その優雅なファッションが世界各国から注目を集めていたジャクリーンからインスピレーションを受け、イタリアのピニンファリーナがスタイリングし、1961年パリ・モーターショーで公開された「ブロアム・ジャクリーン」のデザインモチーフは、1960年代のキャデラックに数多く流用された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:74 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef