キャットフィッシュ・ハンター
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キャットフィッシュ・ハンター
Catfish Hunter
マウンドでビリー・マーチン監督、ブラッド・ガルデン捕手と話し合うハンター
(写真左。1979年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ノースカロライナ州・ハートフォード
生年月日1946年4月8日
没年月日 (1999-09-09) 1999年9月9日(53歳没)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1964年
初出場1965年5月13日
最終出場1979年9月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


カンザスシティ・アスレティックス
オークランド・アスレティックス
(1965 - 1974)

ニューヨーク・ヤンキース (1975 - 1979)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1987年
得票率76.27%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ジェイムズ・オーガスタス・ハンター(James Augustus Hunter, 1946年4月8日 - 1999年9月9日)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ハートフォード出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

「Catfish(ナマズ)」はオーナーのチャーリー・O・フィンリーが命名したもので、趣味がナマズ釣りだったことに由来する。
経歴
アスレチックス時代(1965年 - 1974年)

1964年6月8日にカンザスシティ・アスレチックスと契約。マイナーリーグを経験せずに1965年5月13日のシカゴ・ホワイトソックス戦で、19歳1ヶ月の若さでメジャーデビュー。8月25日のデトロイト・タイガース戦でメジャー初完封[1]9月24日ボストン・レッドソックス戦では6回までノーヒットに抑え、2安打完封勝利を挙げる[2]など8勝を記録。

1966年は初の開幕投手を務め、オールスターゲームに初選出された。後半戦は故障もあって1勝にとどまり、9勝11敗、防御率4.02の成績だった。1967年は防御率2.81、196奪三振を記録するが、援護に恵まれず13勝17敗と負け越した。

球団がオークランドに移転した1968年の5月8日にミネソタ・ツインズ戦で完全試合を達成。この試合は6回まで両チーム無得点だったが、7回に自ら先制の適時打を放ち3打点と投打に渡って活躍[3]。しかし同カードとなった次の登板では8失点を喫するなどやや調子の波が大きく、13勝を挙げたがリーグワーストの87自責点。1970年は前半戦で13勝を記録し、3年ぶりにオールスターゲームに選出されるが、後半戦は5勝にとどまり、18勝14敗、防御率3.81の成績だった。

1971年は開幕直後は不調もその後8連勝。後半戦で防御率2.29と調子を上げ、21勝11敗、防御率2.96を記録し、チームの地区優勝に貢献。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し完投するが5失点を喫して敗戦投手となり、チームは3連敗で敗退した。

1972年は21勝7敗、自己最高の防御率2.04を記録し、チームは地区連覇。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発して9回途中1失点、第4戦では8回途中1失点と好投するが共に勝敗付かず。チームは1931年以来41年ぶりのリーグ優勝を果たす。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは第2戦に先発し、完封目前の9回2死から1点を失い降板するが勝利投手。最終第7戦では5回途中から登板して勝利投手となり、42年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。サイ・ヤング賞の投票では4位に入る。

1973年は途中1ヶ月の離脱もあったが6月2日から13連勝。リーグワーストの39被本塁打ながら21勝5敗、防御率3.33の成績でチームの地区3連覇に貢献。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し勝利投手。第5戦では5安打完封勝利を挙げてチームはリーグ連覇。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは第3戦と第6戦に先発していずれもトム・シーバーと投げ合い、第6戦では8回途中1失点で勝利投手となり、チームはワールドシリーズ連覇を果たした。サイ・ヤング賞の投票では3位。

1974年は25勝12敗、防御率2.49、リーグトップのWHIP0.99を記録し、共に初の最多勝利最優秀防御率のタイトルを獲得する活躍でチームは地区4連覇。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが5回途中6失点の乱調で敗戦投手。第4戦では8回途中無失点に抑えて勝利投手となり、リーグ連覇に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは第1戦の9回二死からローリー・フィンガーズをリリーフしてセーブを記録。第3戦では8回途中1失点で勝利投手となり、チームは史上3度目のワールドシリーズ3連覇の偉業を成し遂げた。初のサイ・ヤング賞を受賞し、MVPの投票でも6位に入った。

しかし、同シーズンオフに「給料が契約通りに支払われなかった」と調停委員会に申し立てを行った結果、球団の契約違反により保留条項を含む全ての契約事項は無効であると認定され、史上初のフリーエージェントとなる。複数球団による争奪戦の結果、12月31日に5年総額375万ドルという当時としては破格の金額でニューヨーク・ヤンキースと契約。その際に使用したボールペンは野球殿堂博物館に展示されている。
ヤンキース時代(1975年 - 1979年)

移籍1年目の1975年は開幕3連敗を喫するなど4月は不調も、その後復調。23勝14敗、防御率2.58、いずれもリーグトップの328.0イニング、30完投、WHIP1.01を記録し、リーグ史上4人目の5年連続20勝を達成[4]ジム・パーマーと並んで2年連続の最多勝利を獲得し、サイ・ヤング賞の投票ではパーマーに次ぐ2位に入った。

1976年はリーグワーストの28被本塁打、117自責点ながら17勝を記録し、チームの地区優勝に貢献。カンザスシティ・ロイヤルズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発し1失点完投勝利。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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