キャサリン・ヘプバーン
Katharine Hepburn
キャサリン・ヘプバーン
本名Katharine Houghton Hepburn
生年月日 (1907-05-12) 1907年5月12日
没年月日 (2003-06-29) 2003年6月29日(96歳没)
出生地 アメリカ合衆国コネチカット州ハートフォード
死没地 アメリカ合衆国コネティカット州オールドセイブルック
職業女優
ジャンル映画、舞台
活動期間1928年 - 1994年
配偶者ラドロウ・オグデン・スミス(1928年 - 1934年)
著名な家族キャサリン・マーサ・ホートン・ヘプバーン
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1933年『勝利の朝』
1967年『招かれざる客』
1968年『冬のライオン』
1981年『黄昏』
カンヌ国際映画祭
女優賞
1962年『夜への長い旅路』
ヴェネツィア国際映画祭
女優賞
1934年『若草物語』
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞
1940年『フィラデルフィア物語』
AFI賞
映画スターベスト100
1999年 女優部門第1位
英国アカデミー賞
主演女優賞
1968年『冬のライオン』『招かれざる客』
1982年『黄昏』
エミー賞
女優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)
1975年『Love Among the Ruins』
全米映画俳優組合賞
生涯功労賞
1979年 映画界、演劇界への長年に渡る貢献に対して
その他の賞
ケネディ・センター名誉賞
1990年
備考
演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優
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キャサリン・ホートン・ヘプバーン(Katharine Houghton Hepburn, 1907年5月12日 - 2003年6月29日)は、アメリカ合衆国の女優。
2020年時点で演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優[1]。ノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回に上る(最多ノミネート記録はメリル・ストリープの21回/2020年時点)。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」で女優部門の1位に選ばれている。 コネチカット州ハートフォードにて生まれる。祖父は牧師で、父親のトーマス・ノーヴァル・ヘプバーンはバージニア州出身の医師[2]だが、母親のキャサリン・マーサ・ホートン
生涯
キャサリンは活発な少女で、髪の毛を短く切って自身の名前をジミーと称していた[4]。また、2歳年上の兄トムと仲が良かったという。他にも4歳年下のディック(劇作家)、6歳年下のボブ(医師)、11歳年下のマリオン、13歳年下のペグという6人兄妹の長女であり、幼い頃から演じることに熱中していた[5]。14歳の頃、兄のトムが他界。報道では自殺[6]、あるいは首吊りの真似事をしていた際に起こった事故[7]であるとされているが、真相はいまだに謎のままである。1928年のブリンマー大学イヤーブックに掲載されたヘプバーンの卒業写真
ブリンマー大学では心理学を学んでいたが、21歳の時にサマーストック『The Czarina』『ゆりかご泥棒』で初舞台を経験し、その後も演劇を続け、卒業後にニューヨークに移ると、発声に問題があったため[8]、フランシス・ロビンソン=ダフについて、ひたすら発声練習に励み、劇団に積極的に参加。10本以上の舞台を経て、1932年にRKOの『愛の嗚咽』で映画デビューした。当初、彼女はハリウッドに興味がなく、舞台女優としてのキャリアを確実に踏んでおり、舞台のギャランティは週給100ドルであった。映画に出演するつもりもないので、相手を驚かせるため冗談半分でRKOに週給1500ドルを要求したところ[9]、会社側がこの条件を呑んだため、言い出した以上出演を承諾せざるを得なくなった、というのがデビューの逸話である。
女優としてスクリーンで早くに頭角を現し、オスカー女優となった彼女ではあるが、1930年代中期より『フィラデルフィア物語』(1940年)が大ヒットする頃までは、ハリウッドの「ボックス・オフィス・ポイズン」(金にならないスター)[10]として興行主からは特に嫌われていた。しかし当時、ヒットしなかったスクリューボール・コメディ、例えばケーリー・グラントと共演している2作『赤ちゃん教育』『素晴らしき休日』などは、非常にアクロバティックで、台詞も膨大なマシンガン・トークを駆使し、さらにはアドリブも満載で、名シーンも数多い。これらは後年になり、非常に高い再評価を受けるに至っている。またこれらの名シーンは後年、多くのコメディやラヴ・ストーリーで多用されている。『フィラデルフィア物語』などのジョージ・キューカーと組んだ作品は特に有名であり、キューカーとは彼が他界するまで、生涯の親友であった。