キャサリン・ハワード
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キャサリン・ハワード
Catherine Howard
イングランド王妃
キャサリン・ハワード(ハンス・ホルバイン画)
在位1540年7月28日 - 1541年11月23日

出生1521年
イングランド王国ロンドンランベス
死去1542年2月13日
イングランド王国ロンドンロンドン塔
埋葬 イングランド王国ロンドンロンドン塔内鎖につながれた聖ピーター礼拝堂
配偶者ヘンリー8世
家名ハワード家
父親エドムンド・ハワード
母親ジョイス・カルペパー
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、キャサリン・ハワードに関連するメディアがあります。

キャサリン・ハワード(英語: Catherine / Katherine Howard, 1521年? - 1542年2月13日)は、イングランドヘンリー8世の5番目の王妃(1540年結婚、1542年離婚)。父は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子エドムンド・ハワード(英語版)(第3代ノーフォーク公トマス・ハワードの弟)、母はジョイス・カルペパー(英語版)。ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの従妹、3番目の王妃ジェーン・シーモアの再従妹に当たる[1]
生涯

生年ははっきりしないが、歴史学者ジョアンナ・デニー(英語版)は伝記『Katherine Howard』で、祖父母の遺言状を元に1525年という説を唱えている。

父エドムンドは戦場で名を上げたが、名門ハワード家の出といえど、20人を超える子供のうち遅い生まれであったため、名はあるが実はなく、常に金に困っていた。持参金目当てで結婚しては妻を亡くすということを繰り返し、妻の連れ子も自分の子として育てたため、どちらの子供かもわからないハワード姓の兄弟がキャサリンには多くいた。

時期は不明だが、ノーフォーク公爵未亡人で、父の義理の母に当たるアグネス・ティルニー(英語版)に引き取られ、アグネスの屋敷(サセックスのチェスワース・ハウス(英語版)とランベスのノーフォーク・ハウス(英語版)の2か所)で公爵夫人の教育を受ける他の少女たちと暮らすようになる。アグネスの目が行き届かず、少女達は恋人を共同寝室に連れ込むようになり、その際にキャサリンも音楽教師のヘンリー・マノックスや秘書官のフランシス・デレハムと関係を持ったといわれる。キャサリンはまだ幼かった計算になる(10歳前後という計算さえ成り立つ)が、デニーによると、当時は10代前半で結婚することがよくあったため、キャサリンが性的に早熟だったわけではない。

1540年、ヘンリー8世は前王妃アン・オブ・クレーヴズと離婚してキャサリンと再婚した。キャサリンはアンの侍女の一人だった。ヘンリーは年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がった。しかし、キャサリンは遠縁[2]トマス・カルペパーや以前に恋人であったフランシス・デレハムらと関係があったと国王の側近に訴えられ(カトリックのキャサリンは、家臣のうちプロテスタントの者に疎まれていた)、国王に姦通を疑われ、逮捕された。キャサリンとデレハムが婚約の上で関係を持っていたのであれば、国王との結婚は無効となりキャサリンは無罪とされるはずであった。だがキャサリンは婚約を否定し、デレハムに強姦されたと証言した。一方でデレハムは、国王との結婚後はキャサリンと関係を持っていないと主張したが、キャサリンとカルペパーの関係を証言した。キャサリンからカルペパーに宛てて愛を告白した手紙が証拠として発見され、従姉の元王妃アン・ブーリンの義妹でキャサリンの侍女となっていたジェーン・ブーリンが手引きをしていたことも明らかになった。キャサリン本人は姦通を否定したが聞き入れられず、事実は曖昧なまま処刑された。同じく姦通で訴えられた従姉のアンとは違い、実際に有罪だったと当時も今も信じられている。処刑前には見物人に向かって演説をするのが当時の習慣だったが、キャサリンは「トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と言ったと伝えられる。

キャサリンが夫ヘンリー8世に直訴しようとしたハンプトン・コート宮殿の廊下は、今もキャサリンの幽霊が無実を訴えようと出没する怪奇スポット「ホーンテッド・ギャラリー」(幽霊の廊下)として、世界的に知られている。ミサを聞いているヘンリー8世のいる部屋まで数メートルのところで、警備兵に捕まえられ、牢に連れ戻されたという話である。しかし、歴史学者デイヴィッド・スターキー(英語版)は著書の中で、直訴自体がなかったことを事実を並べて証明して見せた。

アントニア・フレーザーの『ヘンリー八世の六人の王妃』によると、キャサリン・ハワードとはっきりわかっている肖像画はないとのことである。もっとも、上の肖像画に関しては触れられていない。

当記事に使われている肖像画はデイヴィッド・スターキーがキャサリン・ハワードと確認したもので、根拠はヘンリー8世の他の王妃も身に着けていたネックレスである。結婚式当日の様子を描いたものではないかと言われている。
登場作品
小説

フィリッパ・グレゴリー 『
ブーリン家の姉妹4 悪しき遺産』、集英社文庫、上下巻

Jean Plaidy "Murder most royal"

Jean Plaidy "Rose without a thorn"

Sarah A. Hoyt "No will but his "

ヒラリー・マンテル 『鏡と光』

漫画

こざき亜衣『セシルの女王』

脚注^ アン・ブーリン、キャサリン・ハワードの祖母エリザベス・ティルニーとジェーン・シーモアの祖母アン・セイは異父姉妹であり、その母エリザベス・チェイニーを3人共通の曽祖母とする。
^ The Culpepper Family History Site ⇒http://gen.culpepper.com/default.asp[リンク切れ] によればキャサリンの母とトマス・カルペパーは7代前に共通の祖先がいる。

参考文献

森護『英国王妃物語』(三省堂選書) ISBN 4385433259

渡辺みどり『英国王室物語』

Joanna Denny "Katherine Howard"

Janet Hardy Gould "Henry VIII & His Six Wives" (Oxford Bookworms Library)

David Starkey "Six Wives : The Queens of Henry VIII"










イングランドの王妃
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