キャサリン・オブ・アラゴン
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キャサリン・オブ・アラゴン
Catherine of Aragon
イングランド王妃
ルカス・ホーレンバウト画、1527年
在位1509年6月11日 - 1533年5月23日
戴冠式1509年6月24日

出生 (1487-12-16) 1487年12月16日
カスティーリャ王国アルカラ・デ・エナーレス、大司教宮殿
死去 (1536-01-07) 1536年1月7日(48歳没)
イングランド王国ケンブリッジシャー、キンボルトン城
埋葬 イングランド王国ピーターバラピーターバラ大聖堂
配偶者アーサー・テューダー
 ヘンリー8世
子女メアリー1世
家名トラスタマラ家
父親アラゴン王フェルナンド2世
母親カスティーリャ女王イサベル1世
サイン
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キャサリン・オブ・アラゴン(英語: Catherine of Aragon, 1487年12月16日 - 1536年1月7日)は、イングランドヘンリー8世の最初の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。スペイン語名はカタリーナ・デ・アラゴン(Catalina de Aragon)。しばしばカタリナとも表記される。

ヘンリー8世との間に男児が誕生しなかったことから、離婚問題が生起し、イングランド国教会創設のきっかけとなった。

現代英語の表記は頭文字がCになることが多いが、当時はKと表記された。ただし、Katherine, Katharine, Katharinaと研究者によって表記が異なる。また、アントニア・フレーザーはヘンリー8世の他の王妃(キャサリン・ハワードキャサリン・パー)との区別のため、意図的にCを採用している。
生涯カタリナ王女(1496年頃、フアン・デ・フランデス画)
生い立ち

スペインを統合・共同統治して「カトリック両王」と呼ばれたアラゴンフェルナンド2世カスティーリャ女王イザベル1世との間の末子として、アルカラ・デ・エナーレスで生まれた。イングランドからカスティーリャに嫁し、王位簒奪を巡る抗争終結の象徴となった曾祖母キャサリン・オブ・ランカスター(スペイン名:カタリナ)にちなんで命名された[1]

次姉は後のスペイン女王フアナであり、その息子で共同統治者であるカルロス1世神聖ローマ皇帝カール5世)はカタリナの甥にあたる。
政略結婚の背景

当時のイングランドは、1485年に薔薇戦争が終結して間もなく、ランカスター家の血を引くヘンリー・テューダーヨーク家エリザベス王女の結婚により両家の和合が図られ、混乱も収拾されたばかりであった。エリザベスの伯母でブルゴーニュ公妃のマーガレットは一時、イングランド王位僭称者で反乱を起こすパーキン・ウォーベックを公認しており、ヘンリー7世は国内の混乱を抑えるため、マーガレットおよびその婿であるハプスブルク家マクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)に接近する必要があった[2]

マクシミリアンは自身の子であるマルグリットアストゥリアス公フアン王子に、フィリップ(フェリペ1世)をフアナ王女に、それぞれスペイン王家(トラスタマラ家)と縁組させていた。1497年にフアン王太子が、翌1498年にカタリナの長姉イサベルが、そして1500年にイサベルの遺児ミゲルがそれぞれ死去し、次姉フアナが王位継承者となったため、スペインのハプスブルク家による継承が決定的になった。しかも当時のスペインは、カトリック両王によってレコンキスタが完成され、「新大陸」の発見に沸くなど、ヨーロッパ国際社会において勢いを増していた[3]

スペイン側も、カタリナの父フェルナンド2世は東方への進出のため、フランスを包囲すべく、ハプスブルク家やイングランドとの縁組を希望していた[4]

このような情勢下で、カタリナとヘンリー7世の長男アーサーとの縁組が企図された。貪欲なヘンリー7世は巨額の持参金を要求し、スペインのイングランド駐在大使デ・プエブラが1489年3月12日に交渉をまとめた[4]。しかし、ハプスブルク家とフランス王家によるブルターニュ女公アンヌを巡る抗争の中で、1492年にヘンリー7世、フェルナンド2世の双方ともにフランスと条約を結び、カタリナの婚約は一度破談になった[5]

第一次イタリア戦争において、フェルナンド2世はイングランドに前もって根回しし、1495年の神聖同盟にも介入をさせなかった。このことからヘンリー7世は、イングランドがヨーロッパ情勢のキャスティング・ボートを握っていることに気付き、再びイングランドとスペインの思惑が一致したことから縁談が再燃する[6]。1497年に新たな条約が結ばれ[7]、最終的に20万クラウンの分割払いで決着した[8][9]

スペイン王家はランカスター家・ヨーク家の祖とそれぞれ姻戚関係にあったことから、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった[注釈 1]。そのため時のローマ教皇ユリウス2世は教会法規により、1498年に特免状を与えて許可している。

アーサー王太子は1499年と1500年に代理結婚式を挙げ[10]、カタリナとも文通をしていた。


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