キム・フィルビー
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ハロルド・エイドリアン・ラッセル
・「キム」・フィルビー

生誕1912年1月1日
イギリス領インド帝国アンバーラー
死没 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
(1988-05-11) 1988年5月11日(76歳没)
職業ジャーナリスト
MI6職員
NKVD協力者
KGB協力者
配偶者アリス・「リッツィ」
アイリーン
メリンダ
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ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby:1912年1月1日 - 1988年5月11日)は、イギリス秘密情報部(MI6)職員でソビエト連邦情報機関NKVDKGB)の工作員となった。

イギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」の一人でその中心人物。MI6の長官候補にも擬せられたが、二重スパイであることが発覚しソ連に亡命した。
生涯
生い立ち

イギリス領インド帝国パンジャーブアンバーラーで、植民地行政官のジョン・フィルビーを父として生まれる[1]。ジョンは後にサウジアラビアの建国にも関与した著名なアラブ学者となった[2]。愛称の「キム」は、ラドヤード・キップリングの小説「少年キム」の主人公にちなんで父親が名付けた[3]。厳格かつ奇矯な性格で家庭においては暴君だった父親との関係は、フィルビーの性格とスパイとしての活動に影響を与えることになる[4]
大学とスパイ徴募

父と同様に、パブリックスクールウェストミンスター・スクールを経て1929年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した[5][6]。当時のイギリスは大恐慌の影響で社会矛盾が露呈し、ヨーロッパにおいてはファシズムが勃興していた[4]

1930年代のケンブリッジにおいては、反ファシズムに加え共産主義思想に惹かれ共産党に入党する学生が多かった[4]。フィルビーはここで後にスパイ仲間となるガイ・バージェス、ドナルド・マクリーンらと知り合っている[7]。フィルビーは大学の社会主義協会に所属し、労働党の選挙運動を手伝った[8]。1933年にはドイツを訪れ、ナチスによる反ユダヤ主義政策を目の当たりにしてショックを受けた[8]

帰国後マルクス主義経済学者モーリス・ドッブに紹介される形で語学留学の名目でウィーンに赴き、ドイツ共産党ミュンツェンベルグを中心としたナチスからの亡命者支援組織に関わる[9]。ウィーンでは紹介されたユダヤ人家庭の娘アリス・「リッツィ」・コールマンと交際を始め、オーストリアのみならずハンガリーでも共産党の地下活動に従事した[10]。だがリッツィに逮捕状が出たのを機に、1934年2月に彼女と結婚しイギリスへと帰国した[11]

ロンドンにおいてリッツィを通してアルノルト・ドイッチュに紹介された[12]チェコ出身のユダヤ人で当時ロンドン大学大学院に籍を置いていたドイッチュは、NKVDのスパイ徴募係であった[12]。ドイッチュから勧誘されたフィルビーは迷うことなくスパイとなることを承諾した[13]。NKVDは中東における著名人であるフィルビーの父親がイギリスの情報部員であると疑っており、フィルビーはテストとして父親の書斎から最も重要と思われる書類を写真に撮るよう求められ、これを実行した[14]。ドイチュはフィルビーが両親とその階級に心からの軽蔑と憎しみを示していると報告している[14]。リッツィとはこの頃別居した[15]
ジャーナリスト時代

ドイッチュの指示でフィルビーはひとまずジャーナリズムに就職することを決めた[16]。いくつかの雑誌を渡り歩くとともに、カムフラージュとしてイギリスにおけるファシスト組織であった英独友好協会へ加入した[17]。協会の代表としてドイツを訪問し、ヨアヒム・フォン・リッベントロップにも面会している[15]。共産主義シンパである友人の中には、フィルビーの思想転向に怒り絶交するものもいた[15]

フィルビーは外務省に入省していたマクリーンをスパイ網に引き入れた[18]。バージェスの方は性格的に不安定で採用を躊躇したが、これを察したバージェスは強引に認めさせた[18]。バージェスはさらに美術史家のアンソニー・ブラントをスカウトした[19]

1936年にスペイン内戦が勃発すると、フランシスコ・フランコが率いるナショナリスト陣営の情報を集めるよう指示を受けた[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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