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13世紀初期のキプチャク勢力圏。『ルーシ年代記』で見られるポロヴェツ人の一家。
キプチャク[注釈 1](Kipchaks)は、11世紀から13世紀にかけて、現在のウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。ルーシの史料[注釈 2]ではポロヴェツ(ポロヴェッツ)、東ローマやハンガリーの史料ではクマンと記された[1]。
現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、当時キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipch?q)と呼ばれた。またのちにキプチャク草原を支配したモンゴル帝国のジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのはこのためである。
名称
乞卜察兀タ、欽察兀タ…『元朝秘史』による表記。
欽察(Q?ncha)、欽叉(Q?nch?)…『元史』による表記。「キプチャク」を漢字転写したもの。
可弗叉…『西遊録
キプチャクはテュルク系の遊牧民で、11世紀頃ヴォルガ川方面から黒海沿岸のステップに進出し、ペチェネグに代わって新たなルーシ諸国の脅威となる。1091年、東ローマ帝国のアレクシオス1世を助けて、バルカン半島のペチェネグ軍を壊滅させるが、キエフ・ルーシに対しては度重なる襲撃と略奪を行い、1096年にはキエフ・ペチェルスキー修道院を焼失させた。12世紀初頭、キエフ・ルーシの公スヴャトポルク2世とウラジーミル2世モノマフは一連のポロヴェツ(キプチャク)遠征を企てて成功を収め、ポロヴェツ(キプチャク)はドン川流域にサルチャク・カンの少数の軍が残る程度となる。サルチャクの弟オトロクは四方のポロヴェツ(キプチャク)を連れてグルジア王国のダヴィド王に仕えた。1125年、ウラジーミル2世モノマフが没し、ルーシ諸侯の抗争が激化すると、ポロヴェツ(キプチャク)は諸侯によって敵対・協力の関係をとるようになり、定住したり、通婚したりする者が現われた。なお12世紀初頭から、ポロヴェツの長を、ルーシの長と同じクニャージと称する記述が年代記にみられるようになるが、これはルーシ諸公とポロヴェツ族との関わりの深化を示唆するものである[5]。1170年 - 1180年代になると、ポロヴェツ(キプチャク)は再びルーシに侵攻し、キエフ公スヴャトスラフや、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公のイーゴリといったルーシ諸侯と激闘を繰り広げた。1223年、2回にわたるモンゴル軍の侵攻により、キプチャクはその版図に組み入れられ、キエフ・ルーシともどもジョチ・ウルス領となる(このためジョチ・ウルスはキプチャク・ハン国とも呼ばれる)。一部のキプチャク人はマジャールの地に移住し、ハンガリーの傭兵となった。[6] キプチャク族に関する伝承として、オグズ汗のとき、妊娠中の女性が巨樹の穴に入って産んだ子がキプチャク族の始祖になったという挿話が伝えられる。これは女性が樹霊の庇護のもとに安産したという意味にもとれようが、むしろそれは変形した伝承の形であり、もともとは巫女が樹霊をうけて妊娠し、その子を産んだというのであったかもしれない。これはウイグル、ナイマンなどのテュルク系の諸族に共通する樹霊伝承としてよく語られる。[7]オグズがイト・バラク部族と戦い、敗北を喫した時、彼は二つの川の流れによって形成された島にとどまり、そこに住み着いた。この時、戦で夫に死なれたある妊婦が大きな木のうろに入って赤ん坊を産んだ。この一件をオグズに語る者があった。彼は彼女を哀れんで「この夫人には夫がないから、この赤子は私の息子にしよう」と言った。その子はオグズの子になった。後に彼はキプチャクと名付けられた。この語はテュルク語で「芯が腐っている木」を意味する「カブク」から作られた。すべてのキプチャクはこの男子から出ている。17年経ってオグズはイト・バラク部族を討ち、イランの地へ来てその地方を降した。長い年月が経過した後に彼は自分の地方へ帰った。 ? ラシードゥッディーン『集史』部族篇 [8] 10世紀の地理書『東から西への世界の境界』(Hud?d al-'Al?m)などによると、キプチャク(Qipcaq)族はキマク(K?m?k)なる種族から分離した部族であり、その首長はキマク全体を代表していたという。また、ロシアのワシーリィ・バルトリドはドイツのヨーゼフ・マルクァルト
歴史
伝承による起源
キプチャクの起源
ポロヴェツのルーシへの襲来「アリタ川の戦い (1068年)」も参照
1055年、ポロヴェツはボルーシという者に率いられ、ルーシの地に現れる。ペレヤスラヴリ公のフセヴォロドは彼と和を結び、ポロヴェツ人はもとの所へと引き返した。[9]
1061年、ポロヴェツはソカルという者に率いられ、初めてルーシの地に侵攻した。2月2日、フセヴォロドは出陣し、ポロヴェツと戦ったが敗北した。ポロヴェツは少し攻めた後、去って行った。以降、ルーシの人々は彼等のことを「邪教を信ずる者等(ポガーヌイ)」と呼び、神を知らぬ仇敵共からの災厄ととらえた。[10]