キノー
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この項目では、ソビエト連邦のロックバンドについて説明しています。フランスの劇作家については「フィリップ・キノー」をご覧ください。

キノー
Кино
キノー (1986年)
基本情報
出身地 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 レニングラード
ジャンルロックニュー・ウェイヴポストパンク
活動期間1981年 - 1990年
レーベルMOROZ Records

旧メンバーヴィクトル・ツォイほか

キノー[注 1](Кино、Kino)は、ソビエト連邦時代に活動していたロックバンド。ソビエト連邦を代表するロックバンドである。音楽的には、ポストパンクニュー・ウェイヴにインスパイアされている[1]。バンド名は「映画」を意味している。ボーカルのヴィクトル・ツォイは、現在のロシア連邦でもロックの神様と呼ばれている。
概要

1981年、キノーはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)にて前身となる二つのグループ、PiligrimとPalata no.6のメンバーにより結成された。ボーカルのヴィクトル・ツォイとギタリストのアレクセイ・リュービン、ドラマーのオレフ・ヴァリンスキーの三人がメンバーであった。しかし、ヴァリンスキーは徴兵のため間もなくバンドを脱退した。1982年の春、彼らはレニングラード・ロック・クラブ(英語版)で演奏活動を開始し、そこでアングラで活動していたボリス・グレベンシコフ(英語版)に出会った。

彼らは当初アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイの小説『ガーリン技師と双曲面』から採ったGarin i Giperboloidy(ガーリンと双曲面)を名乗っていたが、グレベンシコフに出会った頃、キノーに改称した[2]。それは、短く「総合的」で、そしてたったの二音節しか無いので世界中の人々に容易に発音できるからであった[3]。ツォイとリュービンは後に、映画館の輝く看板を見てそこからアイディアを得たと語っている[4]

当時ソ連においてロックミュージックは「ブルジョワ的」で好ましくない存在と政府にみなされていたため、その時代のロックバンドと同様、当初は個人のアパートメントで開かれる半地下的なクラブでのみ演奏していた。

キノーはデビュー・アルバムとなる『45』をリリースした。当時キノーは二人だけだったため、グレシニコフは彼のバンドであるアクアリウム(英語版)のメンバーにレコーディングを協力するよう提案した。ドラマーがいなかったため、ドラムマシンで代用した。この『45』はこのアルバムに収録された13曲の合計時間が45分だったことに由来する。

バンドの責任はツォイとリュービンで分担されていた。ツォイは作曲作詞を担当し、一方リュービンはコンサートの組織やリハーサル、レコーディングのセッションなど運営を全て担当していた。しかし、二人の間に生じた多くの違いが頂点に達し、1983年春には二人の間に深刻な対立が生じてしまった。ツォイは特にリュービンの曲に悩まされ、一方リュービンは彼の絶対的なリーダーシップを嫌っていた[5]。そして二人は口も利かなくなり、リュービンはバンドを去ってしまった[6]。同年ユーリ・カスパリァン、翌年にはゲオルギー・グリアノフ、アレクサンドル・チトフが加入し四人編成になった。

アレクサンドル・チトフはアクアリウムとキノーのメンバーだったが、1985年11月、彼は他のグループに賛同しキノーを脱退した。彼の後継にはジャズピアニストのイゴール・チホミロフが就き、彼は解散まで所属した[7]

1986年の春、第4回ロッククラブフェスティバルにて、「Дальше действовать будем мы」(私達は行動し続けるだろう)でグランプリを受賞する。夏には、彼らはセルゲイ・リセンコと共に映画撮影のためキエフへ旅行した。7月にモスクワにてアクアリウムとアリーサ(英語版)とコンサートを開催した。後に、この3つのバンドとコンピレーション・アルバムの『Red Wave(英語版)』を共同制作し[8]、アメリカのカリフォルニアにて1万枚を売上げた。ソ連のロックミュージックとして初めて西側諸国でリリースされた作品となった[9]

この年以降、ツォイは俳優活動を始めたが、キノーのための曲制作を続けた。『Игла』(針)では主演を務め、バンドの名をより有名にした。1988年のアルバム『ブラッド・タイプ (Группа крови)』(血液型)でその人気は頂点に達した[7]。ユーリー・カスパリャンはアメリカ人女性のジョアンナ・ストリングレーと結婚し、彼女は外国からより高性能の機材を持ち込んだ。それにより、このアルバムはそれまで使うことの出来た機材からかけ離れた機材を用い、技術的にもヨーロッパやアメリカに並んだ初めてのレコーディングとなった[10]。このアルバムは西側で賞賛され、1989年にキャピトル・レコードからリリースされ、ロック評論家のロバート・クリストガウが賞賛した[10]

ソ連の中央テレビで演奏が放映され、ロシア・ロックを特集した1987年の映画『アッサ』では幾千もの聴衆の前で演奏した。この後、キノーの人気が全国的に一世を風靡し、80年代のソ連の若者の心を捕えた[7]

全国的な名声を獲得した後、東側諸国はもとより西側諸国からも公演の依頼が舞い込むようになった。デンマークアルメニア地震の義援金のためのチャリティーコンサートに参加し、フランスイタリアで公演した。1989年にはニューヨークで『Игла』(針)の初公開を行い、小規模のコンサートを開催した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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