キティ・フィルム
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株式会社キティフィルム
Kitty film Co., Ltd.
種類株式会社
本社所在地 日本
154-0024
東京都世田谷区三軒茶屋2丁目20番13号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度38分35.0秒 東経139度39分49.6秒 / 北緯35.643056度 東経139.663778度 / 35.643056; 139.663778座標: 北緯35度38分35.0秒 東経139度39分49.6秒 / 北緯35.643056度 東経139.663778度 / 35.643056; 139.663778
設立1982年3月24日
業種情報・通信業
法人番号4010901003055
事業内容映画、テレビ、ラジオの企画・制作
資本金2200万円
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株式会社キティ
kitty Co., Ltd.種類株式会社
本社所在地 日本
157-0072
東京都世田谷区祖師ヶ谷3丁目33-2 三興ビル3F
設立2000年4月
業種情報・通信業
法人番号9013201007911
事業内容映像・音楽の企画・制作
俳優・声優のマネージメント
代表者代表取締役 多賀徹
主要子会社株式会社キティエンターテインメント
株式会社キティパブリッシング
外部リンク ⇒http://www.kitty.co.jp/
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株式会社キティフィルム[1]は、日本の映像制作会社。

本項では映像・音楽の企画・制作会社、芸能事務所である株式会社キティを含めて述べる。
概要

ポリドール株式会社の社員で小椋佳井上陽水ディレクターを務めていた多賀英典が、1972年に芸能プロモーター(興行師)として独立、「キティミュージックコーポレーション」として創立(後に「キティクリエイティブ」→「キティエンタープライズ」と社名変更)。キティ・フィルムは邦画制作プロダクションとして1979年に設立された。

1995年にキティエンタープライズは石坂敬一率いるポリグラム株式会社に買収され、多賀の手許を離れたため(後に、ポリグラム・ミュージック・ジャパン→マーキュリーME→キティMME→ユニバーサルJ→ポリドール・レコード/Kitty Mercury→ユニバーサルシグマ/NAYUTAWAVE RECORDS→EMI RECORDS)、株式会社キティがキティグループの中心企業となっている。

キティ・フィルムはアニメーション制作プロダクションとして『うる星やつら』『みゆき』『めぞん一刻』『らんま1/2』『銀河英雄伝説』を制作したことでも知られ、一時期三鷹にアニメスタジオを設けていた。これらは系列の旧ファイブエースや旧キティエンタープライズからビデオソフトとしても売り出された(→#歴史)。

実写映画での代表作には『限りなく透明に近いブルー』『翔んだカップル』『セーラー服と機関銃』などがある。1990年代までは芸能事務所として永瀬正敏[2]石原真理子(一時期は『石原真理』で活動した。)等一世を風靡した人気タレントが多く所属していた。

映像制作では1980年代のような活発な動きはなくなっている。またキティ・フィルム作品のうち『銀河英雄伝説』、『YAWARA!』、『鬼神童子ZENKI』、高橋留美子作品などの著作権は譲渡しているため、公式サイトや現在発売中の商品のクレジットタイトルには「キティ・フィルム」の標記はない。

キティの関連会社として、アニメファンクラブ運営と各アニメ作品のライツ管理・ビデオソフト発売元を受け持つ「株式会社キティエンターテインメント」(旧・ファイブエース=5-ACE、旧・キティライツ&エンターテインメント)、著作権管理およびキティ伊豆スタジオの運営を行っている「株式会社キティパブリッシング」がある。
歴史

多賀英典1972年にキティ・ミュージック・コーポレーションを創業。

もともと多賀自身がサウンドと映像の融合にこだわり続けていたため、東宝の『初めての旅』を皮切りに映画、テレビドラマに携わり、それでは飽き足らなくなって1979年に映画制作に進出。映画制作会社キティ・フィルムを設立した。

この時集められたのが日活出身の伊地智啓長谷川和彦相米慎二である。映画監督の長谷川和彦、作家の村上龍、プロデューサーの山本又一朗が参加して、同年にキティ・フィルムの製作で村上龍原作・監督の実写映画『限りなく透明に近いブルー』を公開。山本はキティ・ミュージック・コーポレーションで、同年に実写映画『ベルサイユのばら』を製作した。

多賀の意向で村上龍を監督に据えた『限りなく透明に近いブルー』と『だいじょうぶマイ・フレンド』(1983年)は興行的に大失敗を記録。会社をひっくり返すぐらいの損失を計上したが『うる星やつら』の大ヒットが救ったと言われている。当時は親会社のポリドール株式会社よりキティの方が勢いがあり、音楽で稼いだ金を湯水のごとく映画制作に注ぎ込んだ多賀の強引さが、後のキティ凋落のきっかけになったと言われている。

1980年には柳沢きみおの漫画『翔んだカップル』を薬師丸ひろ子主演、相米慎二監督で映画化。これ以降、漫画を原作にすることが多くなり、後述の通りアニメへも進出。薬師丸との関係では、1981年に公開され23億円の配給収入を挙げたその年最大のヒット作品『セーラー服と機関銃』を角川春樹事務所と共同製作。薬師丸をスターダムへ押し上げ、監督した相米の名も高めた。

1981年にはアニメ製作に乗り出し、テレビアニメ『うる星やつら』を制作。『うる星やつら』は映画化もされて成功し、以後、『めぞん一刻』『らんま1/2』と高橋留美子の漫画をアニメ化する路線を敷いた。さらに自社作品のファンクラブを運営して、全国でイベント開催するとともに会報の発行などを行った。ファンクラブは『うる星やつら』のテレビシリーズが終了する1986年3月までは「うる星やつらファンクラブ」、以後は「キティ・アニメーション・サークル」(KAC)と称した[3]

『うる星やつら』の前半は、アニメ制作会社スタジオぴえろが、『うる星やつら』後半から『めぞん一刻』『らんま1/2』『スーパーヅガン』などではスタジオディーンが、『うる星やつら』末期の映画や『銀河英雄伝説』『YAWARA!』はマッドハウスがキティ・フィルム作品の実制作を担った。アニメ部門の責任者は、タツノコプロで企画文芸部に属したことのある劇画村塾出身の落合茂一で、その縁から高橋留美子原作作品がフジテレビで長期放映されるきっかけとなった。

制作を外部へ委託するばかりでなく、やはりタツノコプロ出身でプロデューサーの宮田知行(現・J.C.STAFF代表取締役会長)や演出家の西久保瑞穂を招いてキティ・フィルム三鷹スタジオを設けるなど、一時期は自前でスタジオを持ってアニメ制作を行っていた。1983年にはあだち充の漫画『みゆき』の映像化権を取得して、実写映画を制作するとともに三鷹スタジオでアニメ化した。

キティ・フィルム作品では、プロデューサー田原正利の企画発案で1987年5月に『うる星やつら』テレビシリーズ全話を収録したレーザーディスクのソフトが予約限定で発売され、全50枚・価格33万円と破格の仕様ながら初回分が完売したことで話題を集めた。後に一般的になるLD-BOX、DVD-BOXと呼ばれる商品形態の先駆けであり、映像作品の2次利用の成功例としても知られている[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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