キティホーク
基本情報
建造所ニューヨーク造船所
運用者 アメリカ海軍
艦種航空母艦
級名キティホーク級航空母艦
愛称Battle Cat[1]
艦歴
発注1955年10月1日
起工1956年12月27日
進水1960年5月21日
就役1961年4月21日
退役2009年1月31日
除籍2017年10月20日
その後2017年10月25日、解体決定。
要目
排水量61,351 トン
満載排水量83,301 トン
全長325.8 m
水線幅40 m
吃水12 m
主機蒸気タービン 4機、4軸
出力280,000 shp
最大速力33 ノット
乗員5,642名
兵装.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
Mk.29 シースパロー発射機×2基
ファランクスCIWS×2基
21連装RAM発射機×2基
搭載機最大85機
2000年代の航空団基本構成(総数70機)
F/A-18E/F ホーネット×40機
EA-6B プラウラー×4機
E-2C ホークアイ×4機
SH-60/HH60H シーホーク×5機
C-2A グレイハウンド×1機
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キティホーク(USS Kitty Hawk, CVA-63)は、アメリカ海軍のキティホーク級航空母艦(改フォレスタル級)の1番艦。艦名は、ライト兄弟が世界で初めて飛行機による有人動力飛行に成功したノースカロライナ州キルデビルヒルズに近い町「キティホーク」に因む。その名を持つ艦としては第二次世界大戦で活躍した航空機輸送艦キティホーク
(英語版)に次いで2隻目。原子力ではない通常動力型空母。2008年までフリゲート「コンスティチューション」に次ぐ古参艦(ファーストネイビージャック)であったが、2009年1月31日をもって退役した。 キティホークは1956年1月27日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1960年5月27日にニール・H・マッケルロイによって進水、1961年4月29日にフィラデルフィア海軍造船所で艦長ウィリアム・F・ブリングル大佐の指揮下就役した。 就役当時、ソ連は空母建造に乗り出していたためアメリカ政府は空母の運用を多角的に検証しており、就役間もないキティホークや同型艦アメリカに当時CIAが運用していたU-2A高高度偵察機の空母運用を前提とした実験を行いアメリカ政府の新たな空母戦略の尖兵となった。 西大西洋での整調後、キティホークは1961年8月11日にノーフォークを出航した。ブラジルのリオデジャネイロに寄港し、ブラジル海軍長官を乗艦させたキティホークはブラジル海軍の5隻の駆逐艦によるデモンストレーションを見学した後、10月1日にホーン岬を一周した。続いてチリのバルパライソへ向かい10月13日に到着、二日後ペルーに向かい10月20日カヤオに到着、ペルー大統領の表敬訪問を受けた。サンディエゴでは海軍作戦部長ジョージ・W・アンダーソン
艦歴
キティホークは1961年11月23日、改修のためサンフランシスコ海軍造船所に入る。サンディエゴ沖での作戦活動後、1962年9月13日にサンフランシスコを出航した。キティホークは1962年10月7日に第7艦隊と合流し、空母ミッドウェイ(USS Midway, CV-41)と旗艦任務を交代した。
フィリピン共和国航空週間ショーに参加後、キティホークは1962年11月30日にマニラ湾を出航し、12月3日に最新兵器を視察する太平洋艦隊最高司令官のハリー・D・フェルト(英語版)提督の訪問を受ける。12月始めに香港を訪問した後日本へ戻り、1963年1月2日に横須賀に到着した。続く2ヶ月間で神戸、別府、岩国を訪問、4月2日にサンディエゴに帰還した。
1963年6月6日、ジョン・F・ケネディ大統領が軍及び政府高官と共に乗艦し、カリフォルニア沖で行われる空母任務部隊(タスクフォース)によるデモンストレーションを視察した。ケネディ大統領はキティホーク任務部隊の兵士に対して、海を制することは安全と平和、最終的な勝利を意味すると語った。ケネディは後に、空母コンステレーション(USS Constellation, CV-64)に乗艦して同様のデモンストレーションを視察した?介石夫妻に対して「私は、私がキティホークへの訪問で受けた、これらの強力な空母と護衛艦隊が世界のあらゆる国の自由を維持を支援することに対する感動と同じように、あなたたちが感動したことを望みます。」との書簡を送っている。
カリフォルニア海岸沿い、ハワイ沖での一連の攻撃練習および戦術訓練に続いてキティホークは再び極東へ向かう。日本への航路の途中でキティホークはケネディ大統領暗殺事件の知らせを受ける。1963年11月25日の佐世保入港時、キティホークは半旗を掲げ、大統領の葬儀当日は礼砲を発射した。南シナ海を巡航し、第7艦隊との即応作戦活動でフィリピンへ向かった後、キティホークは1964年7月20日にサンディエゴへ帰還した。 ピュージェット・サウンド海軍工廠でオーバーホール後、西海岸沿いで訓練を行い、キティホークは1965年10月19日にサンディエゴを出航、ハワイを経由してフィリピンのスービック海軍基地に向かった。同所で戦闘準備を行った後ベトナムの沖合へ向かう。 1965年11月26日から1966年5月14日にかけて艦載機部隊は悪天候と激しい抵抗にもかかわらず、北ベトナムの軍事目標に対する攻撃を行い、キティホークは作戦活動を維持するための勇敢な精神、勇気、専門意識および献身的意識を示したとして海軍殊勲部隊章を受章した。 キティホークは1966年6月にサンディエゴに帰還し11月4日までオーバーホールと訓練に従事した。その後再び東アジア海域に展開し、11月19日に横須賀に到着、コンステレーションと交代して第77任務部隊指揮官デヴィッド・C・リチャードソン少将の旗艦となる。11月26日に横須賀を出航しスービック湾を経由してヤンキー・ステーションに到着、12月5日に艦載機部隊は北ベトナムに対し昼夜の境無く作戦活動を開始した。この時期キティホークにはウィリアム・ランドルフ・ハースト・ジュニア
ベトナム戦争
ベトナム戦争中の1972年10月12日、トンキン湾のステーションに向けて航行中に100名以上の水兵が人種問題での騒ぎとなり、50名近くが負傷した。