キット・カーソン
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キット・カーソン

キット・カーソン(Kit Carson,1809年12月24日 - 1868年5月23日)、本名クリストファー・ヒューストン・カーソン(Christopher Houston Carson)はアメリカ合衆国西部の開拓者として知られる。
若年期

ケンタッキー州マディソン郡リッチモンド近くで生まれ、ミズーリ州フランクリンで幼少時を過ごす。15歳の時に鞍職人の見習い工として当時メキシコ領だったニューメキシコ州に移住し、そこで交易者と「マウンテンマン(罠猟師)」として独立した。アメリカ合衆国南西部で過ごす間、ガイド、偵察役、インディアンの代理人、飼い、農家、牧場主、軍人(後に准将まで昇進)としても活躍した。太平洋までの西部交易路を地図にしたジョン・C・フレモント探検隊のガイドをして、カーソンの評判は上がった。フレモントによると、カーソンは中背で肩幅が広く、胸板が厚く、はっきりした青い目で親しげに話し、慎み深く物静かだったという。「ベント砦」

罠猟師としてのキャリアの後には、ベント砦(現コロラド州)で猟師になった。その後ジョン・C・フレモントに再会し、1842年1843年1845年の3つの遠征のガイドをした。その間にカーソンはニューメキシコ州のタオスにふたたび入植した。アントニオ・ホセ・マルティネス神父の導きを受けて、1842年にカトリック教会の洗礼を受けた。1843年2月6日、彼が34歳の時、3人目の妻として、タオスの名家の出身で14歳のホセファ・ハラミーヨ(Josefa Jaramillo)と結婚した。二人は8名の子供たちを育て、その子孫は現在もコロラド州アーカンザス川流域に居住している。カーソンは、スペイン語インディアンの言語に非常に堪能であった。
兵役

カーソンは数々の戦争に従軍し、准将にまで名誉進級した。
米墨戦争「サンパスカルの戦い」

1846年米墨戦争が始まると、ジョン・C・フレモントのもとでカリフォルニアのメキシコ人と戦った。フレモントによる間接的な命令で、カーソンは、ポイント・サン・パブロにおいて、賛否両論のある3名のカリフォルニオ人市民の殺害において主導的な役割を務めた。カーソンはまた、スティーブン・W・カーニー将軍と少数のアメリカ人部隊が包囲されたサンパスカルの戦いにおいても戦功をたてた。彼とエドワード・ビール中尉と一人のインディアン斥候は、音をたてないように水筒を捨て、ブーツも脱いだ裸足になってサボテンと岩の間を腹這いで25マイル(約40km)も進み、サンディエゴに到着し、ロバート・ストックトン海軍准将に戦況を報告してすぐさま救援軍を送ることができた。
南北戦争

1861年4月に南北戦争が始まると、キット・カーソンはニューメキシコ北部のインディアンの連邦代理人としての役職を辞め、セラン・セント・ブラインによって組織されていたニューメキシコ志願歩兵に参加した。ニューメキシコ準州は公式に奴隷制を許可していたとはいえ、ニューメキシコは地理的にも経済的にも奴隷労働は実用的ではなかったので、州境内にはほんの一握りの奴隷しかいなかった。このため、準州政府と指導者たちは、全員一致で合衆国軍を支援した。

ニューメキシコ方面における合衆国軍の全体的な命令が、正規軍の第19歩兵団のエドワード・キャンビー大佐に下され、サンタフェのマーシー砦を本部とした。この時カーソンは、志願兵の大佐であった。1862年初め、ヘンリー・ホプキンス・シブレー将軍率いるテキサスの連合国軍は、ニューメキシコ準州の侵略にとりかかった。この遠征の目的は、コロラドの金鉱地を征服することと、北部から南部へ、価値のある資源を取り戻すことであった。

1862年2月21日、リオ・グランデ川を上流に前進して、シブレーの軍隊はキャンビーの北軍とヴァルヴァードで衝突した。このヴァルヴァードの戦いは連合国側の勝利で終わった。この戦いの後、キャンビー大佐と正規軍のほとんどは東部戦線へと移動したが、カーソンと彼のニューメキシコ志願兵は、引き続き「インディアン問題」に従事することになった。


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