キックボクシング
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キックボクシングKickboxing

使用武器ボクシンググローブ
発生国 日本
発生年1966年昭和41年)
創始者野口修山田辰雄
源流ムエタイボクシング空手グローブ空手GHQ武道禁止令
派生種目シュートボクシングK-1グローブ空手
主要技術蹴り技パンチング肘打ち
公式サイト ⇒全日本キックボクシング連盟
新日本キックボクシング協会
WAKO
WKA
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キックボクシング(: kickboxing)は、格闘技の一つ。リングを使った打撃系格闘技全般、およびキックやパンチを用いる動作の総称としても使用され、この場合はストライキングとも呼称される。
概要

日本のボクシングプロモーター野口修がムエタイの試合ルールを参考にして考案した、日本発祥の打撃格闘技である[1]興行によってはムエタイ空手ボクシングシュートボクシングサバット・ドラッカ・テコンドー散打等、様々な種類の立ち技格闘家同士が異種格闘技戦をすることもあり、プロ格闘競技種目の名称となっている。

野口が1960年代タイ王国の国技ムエタイを日本に招致する興行プランを立案。「ムエタイ対空手」、「ムエタイ対ボクシング」の異種格闘技戦のアイデアを実現させるために、試合としてのルールを編成したものである。興行が成功した結果、キックボクシングは「アジア地区で立ち技格闘技として最強と謳うムエタイに対抗し、日本が独自で開発した格闘技の一つ」とされている。
歴史
キックボクシング成立前史

1959年昭和34年)12月20日東京都台東区浅草公会堂でサノン・ETC対ベライノ・チールムーンという、タイ人同士によるムエタイの試合が日本で初めて開催された[2]。日本拳法空手道の創始者・山田辰雄直接打撃制による空手の試合化を目指しており、その研究の一環としてムエタイに興味を示す。既に山田は同年11月に「新スポーツの発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書を発表し、新スポーツ「空手ボクシング(仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和35年の新春を期して、当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した。浅草公会堂で行われたムエタイ試合が山田が招聘したものかどうかは判然としないが、山田が日本で初めてムエタイに関心を示した空手家の一人だったことは確かである。山田は早速、飯田橋の道場にムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して、息子の山田侃にスパーリングの相手をさせ、ムエタイの研究を始めた。このカウキーを山田の元へ連れてきたのが野口修だった。1961年(昭和36年)、山田が発行した『日本拳法空手道教本』創刊号には、既にカウキーの写真が掲載されており、この時既に山田は空手とムエタイを融合させた新スポーツの構想を膨らませていた。

1962年(昭和37年)、山田は空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホールで開催した。これはノックアウト(打倒勝)、体重別階級、グローブ着用などのルールを採用して行われた。後のキックボクシングやフルコンタクト空手に先駆ける画期的試みだったが、寸止めルールを採用する当時の空手界からは黙殺され、新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試みは結局挫折に終わった。一方、野口修は1962年(昭和37年)8月24日に後楽園ホールで開催された日本で二度目のムエタイ試合を観戦して感激し、空手対ムエタイの興行の可能性を感じた。早速野口は空手家にこの構想を打診するが、この時の相談相手が大山倍達(当時大山道場、のちの極真会館)と山田辰雄だった。1963年(昭和38年)、大山道場から黒崎健時中村忠藤平昭雄タイ王国バンコクへ向かい、空手対ムエタイの交流戦に参加した。当地では「日本から空手が殴り込みに来た」と大変な反響を巻き起こした。結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越したものの、敗れた黒崎は打倒・ムエタイを誓い、1969年(昭和44年)にキックボクシングの目白ジムを創設して、大沢昇・島三雄・藤原敏男らを輩出した。
キックボクシングの成立

タイ王国での成功に自信をつけた野口修は、1966年(昭和41年)1月30日、キックボクシングの名称を考案して日本キックボクシング協会を設立。空手家ボクサーなど異なる武道格闘技のバックボーンを持つ選手を集め、4月11日大阪府立体育会館で初めての興行を開催した。この時、直前になって突然大山倍達から「都合があって、申し訳ないが、どうしても選手を出せない」と辞退の連絡を受けた。山田辰雄の道場の選手だけでは試合に足りないことに慌てた野口が、急遽出場を依頼した一人に日大芸術学部空手部・剛柔流空手出身の沢村忠がいた。野口はボクサーであるライオン野口(野口進、元ボクシング日本王者で野口ボクシングジム創始者)の長男であり、帝拳ジムでボクシング業界裏方修行を積んだ、プロモーターの申し子のような人物であった。もともと存在したツテを生かしてテレビ局に対しても積極的に売り込んでいった。野口の政治力、熱意なしに国内に根付くことはなく、野口は“キックボクシング”を商標登録していた[3]。キックボクシングは全国的なブームを巻き起こし、在京の民放4局では沢村忠がエースの『YKKアワー キックボクシング中継』(TBSテレビ)、大沢昇がエースの『キックボクシング』『ゴールデン・キックボクシング』(日本テレビ)、山崎照朝がエースの『ワールドキックボクシング』(NETテレビ)、藤原敏男がエースの『キックボクシング中継』(東京12チャンネル)を独自に毎週レギュラー放映するほどの人気に至った。

日本拳法空手道は創始者・山田辰雄が亡くなった1967年(昭和42年)以降もキックボクシングへ協力し、錦利弘はキョードー東京のスター選手となり、日本人としては初めてタイ人現役ランカーにKO勝利。日本拳法空手道が組織として関わったのは『ワールドキックボクシング』で、江口和明(初代バンタム級チャンピオン)らを選手として送った。極真会館はキックボクシング成立以前からプロ空手の立ち上げを狙っていたが、キックボクシングが成立後にNETテレビから誘いを受け、極真ジムを立ち上げて山崎照朝(オープントーナメント全日本空手道選手権大会チャンピオン)・添野義二及川宏ら選手を『ワールドキックボクシング』へ送り込んだ。1969年(昭和44年)春には東京12チャンネルが、岡村プロモーションを通じて黒崎健時の目白ジムと提携し、同年の8月2日からテレビ中継を開始。1971年(昭和46年)には日本テレビで中継していた協同プロモーションの賛同も得て、石原慎太郎がコミッショナーを務める第2の団体全日本キックボクシング協会が設立され、日本テレビの協同プロモーションと東京12チャンネルの岡村プロモーションによる「八階級全日本統一王者決定戦」を日本武道館で行うなど、日本キックボクシング協会と双璧をなす団体にまで成長した[4]

1969年には日本の大学で初の『日本大学キックボクシング同好会[注釈 1]』を同大学生であった山崎照朝が結成[2]。同好会は後に部へ昇格し、1972年10月には全日本学生キックボクシング連盟が発足され、山崎は同連盟の設立に尽力した[2]

1970年代に入ると、野口プロモーションは五木ひろしの興行による莫大な利権でナベプロホリプロとの賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。オイルショック後の大不況、日本テレビやTBSの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち引退)で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。
分裂期

1984年(昭和59年)に、日本のキックボクシングの7団体のうち4団体が解散し合同して日本キックボクシング連盟を設立。同年11月30日に、後楽園ホールで旗揚げを行う。1985年(昭和60年)に、日本キックボクシング連盟の元理事長で、六本木で「朋昌」という会社を営んでいた実業家の石川勝将が「マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟」を設立。石川は、同団体を追放された形でMA日本を設立した。1987年(昭和62年)7月に、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に所属していたジムが同連盟を離脱し、全日本キックボクシング連盟を創設した。この際、ジムのみならず、認定していた5階級の現役王者全員が全日本キックに流出した。1996年平成8年)に入ると、全日本キックが完全に分裂し、当時同団体の理事長を務めていた藤田眞と所属していたジムの大半が離脱。ニュージャパンキックボクシング連盟(以降、NJKF)を結成。1997年(平成9年)10月に「オールジャパンエンタープライズ」が倒産したため、全日本キックボクシング連盟が解散。直後に、有力ジムにより同連盟が立ち上げられ、活動を再開した。1997年(平成9年)に全日本キック所属のジム「アクティブJ」が新団体のJ-NETWORK(以降、J-NET)を結成した。また、全日本キック傘下のジムとして主催興行を予定していた1997年(平成9年)12月21日をJ-NETの旗揚げ興行とし、その日に興行を行った。1998年(平成10年)6月14日に、八王子FSGを中心としたジムが記者会見を開き、彼らは全日本キックを離脱し、キック・ユニオン(K-U)を結成すること明らかにした。
K-1の登場

1990年代になりテレビ界とのコネクションをつけてフルコンタクト空手の大会を催していた石井和義が、キックボクシングの亜流ルール(肘打ちを禁止する欧州ムエタイルールをアレンジしたもの)で空手ボクシングムエタイなど、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、テレビ局との共催で打撃系格闘技世界最強を決めると称する大会「K-1」を立ち上げ、人気を博す。肘打ちを禁じて流血する度合いを減らし、首相撲によるクリンチ状態になると早めにブレイクして膠着した試合を防いだ。見る側であるオーディエンスに配慮したルール制定と、派手な演出でブームを呼び起こした。
新団体の設立

2006年(平成18年)5月に、新日本キックボクシング協会所属の藤ジムが離脱を表明し、天空キックボクシング協会の設立を表明。元々は興行を開催する事務局だったが、藤ジム会長の加藤重夫の「団体として確立させないと、試合の意義がただのジム対抗戦となり、それでは選手にとって可哀想であることと、ファンにとっても、単に試合があっただけという一過性のままで終わらせるのは良くない」という理由により団体として設立させることを決め、加藤は協会の会長に就任した[5]。12月にアメリカ合衆国オクラホマ州に本部を置く全世界キックボクシング連盟(UKF)の日本進出の足がかりとして、UKFジャパンが設立。理事長には、かねてよりUKFと親交のあった羽田善彦が選ばれた[6]

2008年(平成20年)2月12日にタイ・バンコクで、山根千抄がWBCムエタイ会長のゴーヴィット・パックディーブーム(WBC副会長兼務)と、ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション(以下、JPMC)が日本におけるWBCムエタイが認可する唯一の組織であるという調印を交わした。3月3日にJPMC設立(NPO法人申請中)のプレスリリースを公表し、JPMCが日本におけるWBCムエタイへの唯一の窓口とした。同年10月1日に、JPMCの正式名称を、「コミッション」から委員会を意味する「コミッティ」に改称。同時に、JPMCをWBCムエタイルールに基づくプロのムエタイ活動の窓口として組織を再構することを発表[7]

2009年(平成21年)6月13日に、東京都でJPMC、NJKF、MA日本が共同で記者会見を開き、「WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント」の開催を発表[8]。7月中旬に全日本キックボクシング連盟代表の金田敏男が逮捕されたことにより、同団体が解散[9]


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