キオッジャの戦い
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キオッジャの戦い
キオッジャ戦争

時1379年8月 - 1380年6月24日
場所キオッジャ, ヴェネツィアの潟
結果ヴェネツィアの決定的勝利

衝突した勢力
ジェノヴァ共和国 ヴェネツィア共和国
指揮官
ピエトロ・ドリア  
マッテオ・マルッフォ
カーロ・ジーノ
ヴェットール・ピサニ
アンドレア・コンタリーニ
戦力
ガレー船
ドリア艦隊24隻
ジェノヴァ陸軍[1]ガレー船
ピサニ・コンタリーニ艦隊34隻、ジーノ艦隊14隻[2]
被害者数
大半の艦を喪失[3]
捕虜 4000人[3]
捕獲 ガレー船17隻[3]微小

キオッジャの海戦 (イタリア語:Battaglia di Chioggia)は、キオッジャ戦争終盤の1380年6月24日までにヴェネツィア・ラグーン南端のキオッジャで行われた、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国との間の戦い。[4]

1379年8月、ピエトロ・ドリア率いるジェノヴァ軍がアドリア海深く侵入し、キオッジャの小さな漁港を占領した。[4]この町はヴェネツィアの潟の南端に位置しており、ヴェネツィア本国は極めて重大な危機に陥った。しかしこのキオッジャの戦いで、ヴェットール・ピサニと元首アンドレア・コンタリーニ率いるヴェネツィア艦隊は、東方から帰還したカーロ・ジーノの艦隊と共にキオッジャのジェノヴァ艦隊を破った。[4][5] キオッジャを奪還したヴェネツィアは戦争の主導権を握り、1381年にトリノの和約が結ばれた。この条約は両国の間の明確な勝敗を定めていなかったが、長きにわたったヴェネツィア・ジェノヴァ戦争はここで事実上終結し、以後ジェノヴァ艦隊がアドリア海に現れることは無かった。[6][5] またこの戦いは、大砲が使用され始めた海戦としても重要な意味を持つ。[7]
目次

1 背景

2 戦闘

3 軍事技術

4 戦後

5 脚注

背景

14世紀までに、地中海の海洋貿易は著しい成長を見せていた。その要因はは航海技術の発達だけでなく、第四次十字軍によるビザンツ帝国の一時的な崩壊にもあった。[5]北イタリアの商業都市国家ジェノヴァ・ヴェネツィアは、コンスタンティノープル、中東、黒海、さらにはジブラルタル海峡を抜けてバルト海まで至る地中海の交易路を巡って熾烈な競争を繰り広げた。[5][8] 取引される交易品は、主なものでも木材、金属、武器、奴隷、塩、香辛料、穀物など多岐にわたった。[8] 特にヨーロッパ、特にイタリアで都市化が進み人口が増えたことで、穀物の貿易が急速に重要視されるようになってきた。その主な輸出港は、黒海北岸クリミア半島カッファとアドリア海東岸のキオス島だった。[8] この時代、ジェノヴァとヴェネツィアは互いに交易網を拡大するとともに、海軍を増強して貿易船団の護衛や襲撃、海戦を幾度となく繰り返してきた。その長い闘争がほぼ終結を迎えたのが、キオッジャの海戦であるといえる。[5]

1372年、ヴェネツィアとジェノヴァはキオッジャ戦争(第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争)に突入した。 戦争が本格化した1378年、ヴェネツィアの提督ヴェットール・ピサニは14隻のガレー船を率いてジェノヴァへ向かった。[9] このことから分かるように、キオッジャ戦争の中期までは両国が投入した戦力は他の戦役と比べ小規模だった。 それは14世紀中ごろのペスト大流行により海洋交易が両国ともに低調になっていたことが原因である。

ピサニはアンツィオ岬の海戦などでジェノヴァ海軍を破った後に、ヴェネツィアへ帰還して船団を改装しようとしたが、ヴェネツィア政府に却下された。[9] その代わりに彼は、冬の間クロアチア沿岸のプーラなどを攻めるよう命じられた。[9] しかし1379年5月、ピサニの艦隊はジェノヴァ艦隊の罠にはまり、プーラの海戦でほとんどのガレー船を失う大敗北を喫した。[9]アドリア海内での勝利で勢いに乗ったジェノヴァは7月にピエトロ・ドリア率いる大艦隊を派遣してヴェネツィア本国に迫り、ラグーンの上にあるリードなどの街を焼き払って船舶を捕獲した。 [9]

1379年8月、ジェノヴァ海軍は陸上の同盟軍のパドヴァ勢と連携してラグーン内に侵入し、キオッジャの港を占領してヴェネツィアの目と鼻の先に基地を築いた。[9]キオッジャを失ったヴェネツィアはジェノヴァに講和を申し込んだが、「聖マルコの馬にハミ頭絡をかけるまでは平和は無い」と告げられたため、ヴェネツィア人は最後まで抵抗することに決めた。[9] ジェノヴァ軍は当初ヴェネツィア攻略の未筋を探っていたが、ラグーン内が不案内なためキオッジャに留まることにした。[6] 一方ヴェネツィアは持てる資源をすべてつぎ込み、強制公債を発行し徴兵制を強化することで、プーラの戦いで失った海軍を再建し短期間に34隻のガレー船を揃えた。[9]
戦闘

プーラの海戦の敗北で投獄されていたヴェットール・ピサニが民衆の要求により釈放された。[6] 元首のアンドレア・コンタリーニが自ら総司令官となり、その下にピサニが付いた。[9]ほとんど職人によって構成されていた新ヴェネツィア艦隊を急場で訓練した後、ヴェネツィアを包囲しているジェノヴァ軍を逆に包囲するというピサニの作戦を実施した。[9]12月22日の夜、ヴェネツィア軍は石を積んだ船を運河に沈め、キオッジャのジェノヴァ軍の補給路と退路を断った。[9]また外洋を回ってきたジェノヴァ船が通れないような細い運河からヴェネツィアの小型船が市内に侵入し、小規模な軍勢で陽動攻撃を繰り返してジェノヴァ軍を妨害した。[6] この逆籠城戦は5か月に及び、物資の乏しくなったジェノヴァ軍は徐々に疲弊していった。


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