ガールズケイリン(GIRLS KEIRIN[注 1])とは、女性の競輪選手による競輪として、2012年7月1日から復活した女子競輪(じょしけいりん)の正式な愛称である。
本項では、かつて競輪の創生期に実施されていた昭和期の女子競輪についても記述する。 かつて、1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)まで、女性の競輪選手による競走として「女子競輪」が存在したが、後述の通り、人気面の低落などから長続きせず、僅か15年で廃止となった。廃止以後、女子競輪はしばらくの間、競輪界では黒歴史扱いされてきた[注 2]。 だが、1980年代に競艇が女子レース(レディース競走)を新たな起爆剤とするべく女子選手の大量養成に踏み切り、なおかつ一定の人気を博すようになった影響を受ける形で、競輪界においても幾度となく女子競輪復活の話が持ち上がった。また、橋本聖子や大菅小百合[注 3]らによる夏冬両オリンピック出場も、女子競輪復活への契機へと繋がった。 さらに、2005年に日本自転車振興会(当時)会長に就任した下重暁子が、就任当初より女子競輪の復活に意欲を見せ[2][3][4][5][6]、これを受けて2008年から2011年まで各地の競輪場で日本の女子自転車競技選手を集結させてケイリンのエキシビションとして実施させた。2010年9月30日、日本自転車振興会の後継統括団体であるJKAが、女子競輪の実施概要を明らかにしたことで、復活が事実上決定[7]。2011年4月より合格者を日本競輪学校(当時。現名称は日本競輪選手養成所)に入校させて1年間の訓練を経た後、2012年7月より「ガールズケイリン」として48年ぶりに正式に復活させることになった。 復活したガールズケイリンは、レース形態は男子のA級3班のみで行うチャレンジレースと同じく最大7車立てで行うこととなったため、投票券の発売は枠連・枠単の2賭式は扱わない5賭式となった[8]。そして2012年7月1日、平塚競輪場にて女子1期生となる102期生33名のうち14名によりレースが行われ、昭和期の女子競輪が廃止されてから48年ぶりに女子のレースが復活した。以後、毎年20名程度の新人選手がデビューしているが、2014年後期(7月 - 12月)より男子選手同様に登録審査制度(いわゆる『代謝』制度。こちらも参照)が導入された[9][10] ことにより、2015年後期末以降、各期(半年)ごとに対象となった数名が競走成績不良によるあっせん保留となり強制的に引退させられている。 ガールズケイリンが10周年を迎えた2022年、選手側からレース体系などを男子と同様にしてほしいと改善を望む声が出ていたほか、経済産業相の諮問機関・産業構造審議会において、発足当初からのガールズケイリンのキャッチコピー「顔より太もも。」がジェンダーの観点から不適切ではないかという意見が出たことなどを受けて[11]、ガールズケイリン『リブランディング』と題し、ビッグレースの創設やグレード制の導入、新コンセプト『プロスポーツ競技のまんなかへ』の導入、新ロゴ・新ユニフォームの導入など、大きな変化が見られた[12]。 2024年3月8日時点では、102期生16名、104期生11名、106期生7名、108期生12名、110期生18名、112期生13名、114期生16名、116期18名、118期19名、120期16名、122期生18名、124期23名に加え、新人の126期19名とで計206名が選手として登録されており、ガールズケイリン開始から12年で選手数は初めて200名を超えた[注 4]。他にも、短期登録制度により外国人選手が登録されることもあり、例年4?5名が登録され(登録期間は2年間)、うち年間2か月ほどかけて4?5開催で競走参加する(2020年からはコロナにより入国制限を行った影響で登録者はいない)。 21世紀に入り、弥彦競輪場における「すぴRITS」や、松戸競輪場における「LOVE9」、小倉競輪場における「SUN FLOWERS(後のスペースエンジェルズ[14])」といったユニットによる模擬レースとは異なり、「レディース・ケイリン」と題して女子競輪が行われた。しかし、これは主に地元で集められた女子選手による模擬レースであり、ファンサービスとしてのアトラクションの一部のため、実際に同レースは車券発売の対象とはなっていない。 また、上記「レディース・ケイリン」とは別に、佃咲江と和田見里美の2人が北京オリンピックに出場したことを契機に、女子自転車選手の強化の一環として、2008年からエキシビションとして「ガールズケイリン」が行われた。これには世界選手権自転車競技大会やUCIトラックワールドカップクラシックスへの出場がままならない、日本の女子自転車競技界の底上げという狙いがある。加えて2012年開催のロンドンオリンピックでは女子ケイリンも正式種目として採用されることが決まり、オリンピックを睨んだ強化策の一環という意味合いもあった[15]。 そして、この頃から水面下では女子競輪の復活が関係団体において議論されており、本格実施に向けた試行としての意味合いが大きかった[16]。 2008年に佃咲江、和田見里美の2人が北京オリンピックに出場したことを契機に、女子自転車選手の強化の一環という意味合いにより実現。2008年7月から9月まで、「サマービーナスシリーズ」と題して3戦行なわれた。石井寛子が3戦中2戦、岡希美 2009年には1月から3月まで「2009 Venus Series」と銘打って、全6戦で各地の競輪場で行なわれた。このシリーズに先立ち、サマービーナスシリーズよりも中身の濃いレース内容を目指すべく、合宿も6回行なわれた。なお、競技規則は、国際自転車競技連合(UCI)が定めるケイリンのルールで行なわれ、1日で予選と決勝を行なった[17]。 2010年も2009年同様、1月から3月まで全6戦行われた。同年シリーズ戦では第2、第6戦において、外国人選手の参加も見られた。優勝者は次の通り。
概要
昭和期に行われていた女子競輪の詳細については、こちらを参照のこと。
ガールズケイリン(エキシビション)
2008年
2009年
第4戦 千葉 - 石井寛子
第5戦 松山 - 石井寛子
第6戦 名古屋 - 石井寛子
2010年
第1戦 立川 - 篠崎新純
第2戦 小倉 - 石井寛子
第3戦 奈良 - 前田佳代乃
第4戦 玉野 - 前田佳代乃
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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