ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争
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ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争
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GVTZBLPToPiKCポーランド王国ハンガリー王国
関連地図

黄:ガーリチ・ヴォルィーニ公国領の主な都市
G:ガーリチ、V:ヴォルィーニ
L:ルーツク、B:ベルズ、Z:ズヴェニゴロド
T:テレボヴリ、P:ペレムィシュリ
白:他公国領の主な都市
pi:ピンスク、To:トゥーロフ
C:チェルニゴフ、K:キエフ
(地図上の国境線は現在。当時とは異なる)

時1205年6月19日 - 1245年8月17日
場所ルーシ南西部(現ウクライナ西部)
発端ガーリチ・ヴォルィーニ公ロマンの死
結果ガーリチ・ヴォルィーニ公国の再統一

衝突した勢力
(1228年以降)
ヴォルィーニ公国(1228年以降)
1.チェルニゴフ公国
2.ベルズ公国
3.ハンガリー王国
4.ガーリチボヤーレ
指揮官
ダニール
ヴァシリコ1.ミハイル
1.ロスチスラフ
2.アレクサンドル
3.カールマーン
3.アンドラーシュ
3.ベーラ

本項は、13世紀前半にガーリチ公国ならびにヴォルィーニ公国の支配権をめぐって行われた権力闘争についてまとめたものである。ロシア語 / ウクライナ語ではガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争 / ハールィチ・ヴォルィーニ公国統一戦争(ロシア語: Война за объединение Галицко-Волынского княжества、ウクライナ語: В?йна за об'?днання Галицько-Волинського княз?вства)等の名称で呼ばれ、1205年 - 1245年[1]をその期間とする[注 1]

この闘争は、リューリク朝の諸公家による相続争いに加え、ハンガリー王国ポーランド王国の介入、さらに両王国の支援を受けた在地のボヤーレ(貴族層)によって展開された。闘争はガーリチ、ヴォルィーニ両公国を統合・統治(ガーリチ・ヴォルィーニ公国)していたロマンの死亡した1205年に端を発し、1245年のヤロスラヴリの戦い(ru)に勝利したロマンの子ダニールが支配権を確定させる形で終結した[注 2]

(留意事項):本頁の地名・人名は便宜上ロシア語表記からの転写に統一している。ウクライナ語による名称についてはリンク先を参照されたし。
前史

係争地となった領域は、この権力闘争の直前にガーリチ・ヴォルィーニ公国として統合されているが、元々はヴォルィーニ公国ガーリチ公国という、それぞれ個別の統治者をもつルーシの諸公国の1つであった。ヴォルィーニ公国は1156年からリューリク朝の一公家であるヴォルィーニ・イジャスラフ家(ru)の所領であり、ガーリチ公国はガーリチ・ロスチスラフ家(ru)が領有していた[注 3]

1187年にガーリチ・ロスチスラフ家のガーリチ公ヤロスラフが死亡した後、ヤロスラフの遺児で異母兄弟の関係にあるオレグウラジーミルの間でガーリチ公国の相続争いが勃発した。これに際して、ヴォルィーニ・イジャスラフ家のヴォルィーニ公ロマンは、ガーリチ公国内のボヤーレ・コルミリチチ家やポーランド王国からの支援と共に、ウラジーミルを支持した。そして1198年(もしくは1199年)にウラジーミルが死亡すると、ロマンはガーリチ公位を手中に収め、ガーリチ、ヴォルィーニ両公国を併せて自領とした。なお、ガーリチ統合後、ロマンはガーリチのボヤーレに対し圧政を敷いたことが知られている。

また、1201年、スモレンスク・ロスチスラフ家(ru)のキエフ大公リューリクが、チェルニゴフ・オレグ家(ru)やポロヴェツ族と手を組み、ロマンに対する遠征軍を画策した。しかしロマンは先んじてこれを制し、逆にキエフの人々やチョールヌィ・クロブキ(キエフ南部の諸遊牧民)に招聘されて、キエフ大公位に就いてもいる。
経緯
ロマンの死ガーリチ・ヴォルィーニ公ロマン(作者不明・19世紀?)ロマンの子・ダニールとヴァシリコ(ウクライナ・ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー

1205年6月19日、ロマンはZawichostの戦い(ru)で、クラクフ公レシェクマゾフシェ公コンラトら率いるポーランド諸公軍に敗れ、戦死した。この時、ロマンの子ダニールは4歳、ヴァシリコは2歳であり[3]、ロマンの妻・アンナ(ru)はサノクハンガリー王アンドラーシュ2世と面会し、ハンガリー兵から編成されたガーリチ駐留軍の指揮権を得た。既に1204年12月30日の段階で、ロマンとハンガリー王アンドラーシュ2世との間には相互協定条約が結ばれており、その中には、仮にどちらかが死亡した場合、その遺児を支援する協定が含まれていた[4]


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