ガートルード・ローレンス
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ガートルード・ローレンス
Gertrude Lawrence
1947年
生誕 (1898-07-04) 1898年7月4日
イングランド
ロンドン
死没1952年9月6日(1952-09-06)(54歳)
アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
職業女優
活動期間1916年?1951年
配偶者フランシス・ゴードン・ハウリー
(m.1917年?1927年; 離婚)
リチャード・オルドリッチ
(m.1940年?1952年; 本人の死別)
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ガートルード・ローレンス(英語: Gertrude Lawrence、1898年7月4日 ? 1952年9月6日)は、イングランド生まれの女優、歌手、ダンサー。ロンドンウエスト・エンドニューヨークブロードウェイミュージカルに出演していたことで知られる。
生い立ち

1898年7月4日、イングランドのロンドンにある、現在のサザーク区ニューイントン地区でイングランドとデンマークの流れを汲む家庭に生まれた。出生名についてはガートルード・アリス・ダウマー・クラウズン[1]、アレクサンドラ・ダウマー・ローレンス・クラウズン[2]、ガートルード・アレクサンドラ・ダウマー・クラウズン[1]など諸説ある[3]。父親はアーサー・ローレンスという芸名のバッソ・プロファンド歌手であった。ローレンス誕生直後、父の飲酒過多により母は家を出た[4]

1904年8月の休日、継父にサセックスの海岸のボグナーに連れていってもらった。ボグナー滞在中コンサートに行き、ローレンスは母親に促され舞台上で歌ったところ、ソブリン金貨が与えられた。これがローレンスにとって初めて観客の前で歌った経験となった[5]

1908年、困窮が蓄積し、母はブリクストン劇場のクリスマスパントマイムでのコーラスの職を得た。歌って踊る子供を募集していることを知り、母はローレンスに立候補させた。この間、母はダンスや演技の基礎を教える教育機関イタリア・コンティについて知り、ローレンスにオーディションを受けさせると才能が認められて無料で入学できることとなった。

ローレンスはイタリア・コンティの『Where the Rainbow Ends 』に出演した[6]。稽古を積み、マックス・ラインハルトの『The Miracle 』ロンドン公演、ベイゾー・ディーン演出の『Fifinella 』リバプール・レパートリー・シアター公演などに出演した。この頃、実の父の芸名から「ローレンス」と名乗る決心をした。ディーンは次のゲアハルト・ハウプトマンの『Hannele 』にローレンスを再度起用し、ローレンスはノエル・カワードと出会った。2人は親しいが時々喧嘩もする友情に発展し、互いの人生にとって最も重要な仕事仲間となった[7]
初期の経歴

『Hannele 』の後、ローレンスはコーラス・ガールと同居している父親と再会した。レヴュー2作品のツアーで共演することになり、これにより父は南アフリカ共和国でのバラエティ・ショーでの1年契約の職を得てローレンスとコーラス・ガールを残して去った。16歳となったローレンスは母と継父のもとには戻らず、ソーホーにあるシアトリカル・ガールズ・クラブに所属した。

次々と様々なツアー・カンパニーに所属し、1916年、著名な興行主のアンドレ・シャーロットにベアトリス・リリーの代役として雇われ、ウエスト・エンドでの公演にコーラスとして出演した[8]。閉幕後のツアー公演ではリリーの役を後継し、その後シャーロットの他の公演で再度主役の代役となり、ダンス演出のフランシス・ゴードン・ハウリーと出会った。20歳年上であったがすぐに結婚し、ローレンスにとって唯一の子である娘パメラが誕生した。結婚生活はうまくいかず、ローレンスはパメラを連れてクラファムに住む母のもとに戻った。別居は続いたが、10年後にようやく離婚した[9]

1918年、腰痛を発症し、シャーロットから回復のため2週間の休暇を与えられたが、医者からの復職許可の2日前にアイヴァー・ノヴェロの公演開幕日のパーティでシャーロットはローレンスを目撃して解雇した。ローレンスの解雇理由がウエスト・エンドのプロデューサーの間で広まりローレンスは職に就けず、1919年初頭から約2年間、ロンドンの人気ナイトクラブで歌っていた。この頃、ローレンスは近衛騎兵隊のフィリップ・アストリー大尉と出会った。友人、エスコート、最終的に愛人となり、上流社会での着こなしや行動を教えられた。

1927年、ローレンスはウォール街の銀行家バート・テイラーと恋愛関係になりそうな頃、アストリーにプロポーズされたが、舞台活動を引退しイングランドでの田舎暮らしをすることを望まなかったため断った[10]。1931年にアストリーが女優のマデリーン・キャロルと結婚するまで親友であり続けた[11]。ローレンスはようやくゴードン・ハウリーと離婚し、テイラーとの婚約期間は2年間続き、その間互いに自由に過ごしていた[12]

1920年終盤、ローレンスはミュレイを離れ、人気歌手ウォルター・ウィリアムズのパートナーとしてミュージックホールのツアーで正統な舞台活動に戻った。1921年10月、シャーロットは『A to Z 』で病気のリリーの代役でジャック・ブキャナンの相手役の主役を頼んだ。ローレンスとブキャナンが歌った『ライムハウス・ブルース(英語版)』はローレンスの代表曲の1つとなった[13]

1923年、カワードはローレンスのために自身初のミュージカル・レヴュー『London Calling! 』を執筆していた。シャーロットはプロデュースに同意したが、脚本と音楽により熟練した作家および作曲家に担当させた。クラウドが作曲した曲の1つ『Parisian Pierrot 』はローレンスのキャリアを通して相通じるものとなった。

『London Calling! 』の成功により、シャーロットは『Andre Charlot's London Revue of 1924 』を製作してローレンス、リリー、ブキャナン、コンスタンス・カーペンターと共にブロードウェイで上演した。この公演は大変人気となり、より大きな劇場に移行して上演期間も延長された。閉幕後、北米ツアー公演を行なったが、ローレンスは肺炎胸膜炎を患い降板し、14週間カナダオンタリオ州トロントの病院に入院した[14]

1925年終盤、『Charlot's Revue of 1926 』ブロードウェイ公演にローレンス、リリー、ブキャナンが出演した。『ザ・ニューヨーカー』誌の批評家アレクサンダー・ウールコットはローレンスを「人物描写の方法や技術に優れた理想のスター」と評した[15]。前作同様、ブロードウェイ公演後にツアー公演を行なった。これがローレンスにとってシャーロットとの最後のプロジェクトとなった。1926年11月、ジョージ・ガーシュウィン作曲、アイラ・ガーシュウィン作詞、ガイ・ボルトンおよびP・G・ウッドハウス脚本による『Oh, Kay! 』に出演し、ブロードウェイにおいてアメリカのミュージカルで主演した初のイギリス人女優となった。256回上演ののち、ウエスト・エンドに移行し213回上演した[16]

1928年、ガーシュウィン兄弟作の『Treasure Girl 』ブロードウェイ公演でクリフトン・ウェッブの相手役として出演することとなり、ローレンスは大ヒットする自信があった[17]。ロングラン公演になることを想定し、娘、家政婦、猫2匹と共にニューヨークのパーク街にあるアパートに転居した。しかし予想に反し、観客はローレンス演じる恋人を騙す強欲な女性を受け入れられず、68回上演後閉幕した[18]。1929年、ローレンスはウッドハウスが脚色したオーストラリアの戯曲『Candle Light 』でレスリー・ハワードの相手役を演じた[19]


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