ガートルード・ベル
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ガートルード・マーガレット・ロージアン・ベル(: Gertrude Margaret Lowthian Bell, CBE1868年7月14日 - 1926年7月12日)は、イラク王国建国の立役者的役割を果たし[1][2][3]、「砂漠の女王」(Queen of the Desert) の異名をとったイギリス考古学者登山家紀行作家行政官[4]情報員シリア・パレスチナ、メソポタミア、小アジア、アラビアを広範囲に旅して築いた彼女の知識と人脈により、探検や地図作成を行い、イギリス帝国の政策立案に大きな影響力を持つようになった[5]。 ベルはT・E・ロレンスと共に、現在のヨルダンイラクハーシム朝を支援した。

彼女は、中東各地を旅して築いた部族の指導者たちとの関係から得た独自の視点で、イラクにおける近代国家の確立とその運営に大きな役割を果たした。彼女の生前はイギリス政府関係者から高く評価・信頼され、絶大な力を発揮した。彼女は「国王陛下の政府の代表でアラブの人々が愛情に似た物を覚えた数少ない一人」と評されている[6]ガートルード・ベル (1909年)
生い立ち

ガートルード・ベルは、1868年7月14日、イングランドダラム・カウンティワシントン(英語版)にあるワシントン・ニュー・ホール(現在はデイム・マーガレット・ホールとして知られている)で進学や旅行を可能とする富に恵まれた裕福な家庭に生まれた[7]。彼女の性格はエネルギー、知性、冒険への志向が特徴で、それが彼女の人生の道を形作った。彼女の父方の祖父は、1870年代にイギリスの鉄鋼の3分の1を生産していたノーザンブリアに本拠を置くベル・ブラザーズの創業者・共同経営者の製鉄業者(英語版)で、ベンジャミン・ディズレーリ第2次政権時代に自由党国会議員を務めたアイザック・ロージアン・ベルであった。ロージアン・ベルはイギリスで最も繁栄した実業家のひとりであるだけでなく、ベッセマー金メダル(英語版)受賞者であり、王立協会会員の著名な科学者でもあった。彼のサロンの客にはチャールズ・ダーウィントーマス・ヘンリー・ハクスリー、社会改革家ジョン・ラスキン、芸術家ウィリアム・モリスなどがいた[8]。イギリスの政策決定における彼の役割は、若きガートルードを国際問題に触れさせ、世界に対する彼女の好奇心と後の国際政治への関与を道付けた可能性が高い[9]

ガートルード・ベルの父で第2代準男爵のヒュー・ベル(英語版)は、ロージアン・ベルの長男で、父と同様に徹底した教育を受けていた。 パリソルボンヌ大学で化学、ドイツでは有機化学と数学を学んだ。イギリスに帰国後の彼はロージアン・ベルの企業経営を徐々に引き継ぐ。政治的にも活躍し、当時の基準ではリベラルな姿勢をとり、特に教育や医療に力を入れた。ベルの母メアリー・シールド・ベル[10] とは1867年に結婚したが、1871年、息子のモーリス(後の第3代準男爵)(英語版)を出産中に没した[11]。ガートルード・ベルは当時3歳だったが、この死をきっかけに彼女の父と生涯にわたって親密な関係を築き[12]:33?34、生涯を通じて、様々な政府の役職に長年就いていた父親と政治的な相談をしていた。エドワード・ポインターが描いた8歳のガートルード・ベルと父親、1876年

いくつかの伝記によれば、幼少期に母親を失った事がトラウマとなり鬱状態や危険な行動をとっていた時期があった事が明らかになっている。 しかし、父親はガートルードが7歳の時に再婚し、継母であるフローレンス・ベル(英語版)(旧姓オリフ)との間に3人の異母弟妹が生まれた。フローレンス・ベルは劇作家・童話作家であり、工場の労働者に関する研究の著者でもあった。彼女はガートルードに義務感や礼儀正しさの概念を植え付け、彼女の知的成長に貢献した。 フローレンス・ベルによるミドルスブラ近郊のエストン(英語版)にあったボルコー、ヴォーン(英語版)の工場労働者の妻たちとの活動が、後に義娘がイラク人女性の教育の推進に取り組む姿勢に影響を与えた可能性がある[13]

頭脳明晰だった彼女は、ロンドンのクイーンズ・カレッジ(英語版)で進んで初期の教育を受けた。これは当時としては珍しい一歩であった。当時、ベル家のような社会階層の女子教育はもっぱら個人的な家庭教師によって担われていた。さらに珍しい事に彼女の両親は17歳でオックスフォード大学レディ・マーガレット・ホール[14] に進んで、近代史(歴史学は、当時女性に課せられていた多くの制約のため、女性が勉強することが許されていた数少ない科目の一つであり、当時のメインストリーム的教養に属するラテン語ギリシャ語を専攻できるのは男性に限られていた)を学ぶ事を認めた。「私は少なくともひとつの事を知り、習得したいと考えています。私はこの素人勉強にうんざりしています。何かに没頭したい。」と彼女は父親に自分の願いを書いている[15]。彼女と同級生の女子は、通常はシャペロン(英語版)に付き添われて、聴講生として講義を受けた。弱冠20歳で最優等の成績(英語版)で卒業した最初の女性と言われているが、これは彼女がわずか2年で達成した偉業である[16]:41。記録ではこの年の卒業生11名の内9名が男性で2名がベルとアリス・グリーンウッド(英語版)であった[17]。しかし、女性である彼女らに学位は授与されなかった。オックスフォード大学が学位授与について男女を平等に取り扱う様になるのは1920年になってからである[18][19]

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは女性の大学進学はごく稀であり、ベルは社交界にデビューはしたものの高学歴が災いして煙たがられ、3年経っても求婚者ひとりあらわれなかったという。ベルは生涯未婚であり子供もいなかった。彼女は1903年に弟のヒューゴとともにシンガポールを訪れた際、イギリスの植民地行政官フランク・スウェッテナム(英語版)と親しくなり、1909年まで文通を続けた[20]1904年にスウェッテナムがイギリスに引退した後、彼女は彼と「短いながらも情熱的な情事」を行った[21]。また、1913年から1915年にかけてラブレターを交わした既婚男性のチャールズ・ダウティ=ワイリー(英語版)少佐(英語版)とも不倫関係にあったが[22]:14?17、1915年に彼がガリポリの戦いで戦死した後、ベルは仕事に没頭した。
旅と執筆

ガートルード・ベルは1888/1889年の冬のシーズンを継母の義兄に当たるフランク・ラッセルズ(英語版)が公使として働くブカレストで過ごした[23]。ガートルード・ベルはブカレストでの外交晩餐会や舞踏会に参加し、ベルンハルト・フォン・ビューローや後にインド総督になるチャールズ・ハーディングなどに会った。


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