ガートルード・スタイン
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ガートルード・スタイン

誕生 (1874-02-03) 1874年2月3日
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州アレゲニー(英語版)
死没 (1946-07-27) 1946年7月27日(72歳没)
フランス共和国 ヌイイ=シュル=セーヌ
職業著作家詩人
国籍 アメリカ合衆国
活動期間1903 - 1946
代表作『アリス・B・トクラスの自伝』
デビュー作証明されるべきこと
ウィキポータル 文学
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ガートルード・スタイン(: Gertrude Stein、1874年2月3日 - 1946年7月27日)は、アメリカ合衆国著作家詩人、美術収集家。美術収集家として知られるスタイン兄妹の一人で、パリに画家や詩人たちが集うサロンを開いていたことでも知られる。そこに集まる芸術家たちと交流する中で、現代芸術と現代文学の発展のきっかけを作ったともいわれている。
伝記

スタインは人生の大半を兄のマイケルの投資から生まれる利益で暮らした。マイケルは両親が5人の兄弟を残して死んだ後、資産をうまく管理して投資を行っていた。スタインは5人の兄弟では末っ子であり、両親が亡くなったのはまだ10代の時であった。1930年代中頃に『アリス・B・トクラスの自伝』で成功した後は、印税で裕福になった[1]
生い立ち ガートルード・スタインの生家

スタインはペンシルベニア州ピッツバーグに近いアレゲニーで、ドイツユダヤ人移民で教育もある両親の5人の子供達の5番目として生まれた[2]。父親のダニエル・スタインは鉄道会社の役員であり、路面電車や土地に良識有る投資を行って富を築いていた。スタインが3歳の時、事業の都合で一家はウィーンに移転し[3]、続いてパリに居を移した。一家は1878年にアメリカに戻ってカリフォルニア州オークランドに定着したが、ヨーロッパで余暇を過ごす習慣は続いた。

1888年、母親のアメリア・スタインが死に、1891年には父親のダニエル・スタインが死んだ。長兄のマイケル・スタインが一家の事業投資資産を引き継いでうまく取り仕切り、兄弟達の面倒も見た。両親の死後、マイケルはガートルードとその姉のバーサをボルチモアにいた母の実家に預けた[4]。スタインがクラリベル・コーンやエッタ・コーンと出会ったのはこのボルチモアの時であり、二人が開いていた土曜日の夜のサロンは後にスタインが自分で開いたサロンのモデルにもなった。この2人とは芸術に対する審美眼を共有し合い、それについての会話を楽しんだが、これも後にアリス・B・トクラスとの関係で模倣し、家庭内の分業のモデルになった[5]

スタインは1893年から1897年までマサチューセッツ州ケンブリッジにあるラドクリフ・カレッジに通い、心理学者ウィリアム・ジェームズの教えを受けた。ジェイムズは、心にある意識を一時的に停め無意識を直接喚起する意識の流れの手法、いわゆる自動書記においてスタインの能力を看破し、奨励した。ジェイムズの下で心理学的実験を学んだスタインは、後の多くの作品の中の表現にこれを活かすことになった[6]。洗練された心の意識を使って無意識を高揚させることは、スタインの作品で重要な原則となり、その作品の随所に現れている。ラドクリフでは、メイベル・フット・ウィークスと終生の友となり、彼女との文通はスタインの人生の成長過程で重きをなした。1897年、マサチューセッツ州ウッズホールで夏を過ごし、海洋生物学研究所で発生学の研究をした。これはその後の2年間、ボルチモアのジョーンズ・ホプキンス医学校での研究に続いた。1901年、ジョーンズ・ホプキンスでは学位を取ることなく退学した[7]
パリ、1903年-1914年
フルリュース通り27番

1903年、芸術的創造力ある者が多くモンパルナスに集まっていたパリに移住した。ファイル:Gertrude Stein by Alvin Langdon Coburn.jpg 1913年のスタイン

1903年から1914年、スタインは美術批評家の兄レオ・スタインと共にパリで暮らした[8]。二人は現代美術の初期作品の収集を始め、パブロ・ピカソ(ピカソとは友人になり、スタインや甥のアラン・スタインの肖像画を描いてもらった)、アンリ・マティスアンドレ・ドランジョルジュ・ブラックフアン・グリスなど若い画家達の初期の絵画を所有した。第一次世界大戦の前、二人のフルリュース通り27番にあるサロンには、これらの画家やその他の画家および前衛芸術家を惹き付け、中でも詩人、脚本家、批評家でジャーナリストのギヨーム・アポリネールが居た[9]

ガートルード・スタインとレオの兄妹が集めた美術品は、多くをパリの美術商アンブロワーズ・ヴォラールから得ていた。長兄のマイケルと義姉のサラはマティスの作品を多く集めた。スタインのボルチモア以来の友、クラリベルとエッタ・コーンも同じような収集を行い、後にその収集品をほとんどそのままボルチモア美術館 ⇒[3]に寄付した。スタインの収集品は様々な方法と様々な理由で散逸してしまい、時代は下ってニューヨーク近代美術館がその収集品を再結集させようとした展覧会について、ニューヨーク・タイムズで報告されている( ⇒The Family Knew What It Liked)。

スタイン兄妹の収集品は、彼らがフルリュース通り27番で生活している間に開催された2つの展示会にも反映され、収集品を貸与したり、主役となった画家の援助をすることで貢献した。1つめは1905年に開かれたパリ・オータム・サロンであり、フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派) ⇒[4]をパリの画壇に紹介して衝撃を与え、時事風刺漫画にもなった。2つめは、1913年にニューヨークで開催されたアーモリーショーであり、現代美術をアメリカの画壇に紹介し、同じように大衆の非難の声が上がった。

フルリュース通り27番の住居はレオが1903年4月までに借り、その年の秋にガートルード・スタインが加わった[10]。この時期にスタインはアンリ・マティス(1905年頃)[11]およびパブロ・ピカソ(1905年)[12]と友達になった。また、1904年頃ミルドレッド・アルドリッチとも知り合い、その親交はアルドリッチが死ぬ1928年まで続いた。[13]1911年、アルドリッチはスタインを芸術の女性後援者メイベル・ドッジ・ルーハンに紹介し[14]、1913年には美術批評家アンリ・マクブライドにも紹介した[15]
『証明されるべきこと』、1903年

スタインは1903年10月24日に『Q.E.D.』(Quod Erat Demonstrandum、証明されるべきこと)を完成させた。


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