ガレノス
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ガレノス
ピエール・ロッシュ・ヴィニュロンPierre Roche Vigneronによるリトグラフ(1865年、パリ)

ガレノス(: Γαλην??, 129年頃 - 200年頃)は、ローマ帝国時代のギリシャ医学者。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった[1]。なお、ラテン語ではクラウディウス・ガレヌス (Claudius Galenus) と呼ばれるが、「クラウディウス」に対応する名 (forename) はギリシャ語文献には見出されず、ルネサンス期以降の文献において見られるようになったものである。
生涯

ガレノスは、裕福な建築家アエウリウス・ニコンの息子として、ペルガモンで生まれた。彼の関心は、農業、建築、天文学占星術哲学など多岐にわたっていたが、最終的には医学に専念した。

20歳までには、ガレノスは地方の神殿で医学の神アスクレーピオスに仕えるもの (therapeutes) として4年間を過ごした。148年もしくは149年に父が歿した後、彼はスミルナコリントアレキサンドリアなどで12年以上の研究を積んだ。157年にペルガモンに戻ったときには、剣闘士の学校で3年ないし4年間、外科医として勤務した。この時期に、事故・外傷の手当てに関する多くの経験を蓄積した。ガレノスは後に外傷を「体内への窓」と見なした。

ガレノスは目や脳を対象とするものも含めて、技巧に頼った無謀な手術も多く行った。それらは、その後2000年近くにわたり行われることはなくなった。例えば、白内障の手術では、水晶体の内側にまで長い針状の器具を突き通し、ゆっくりと引き抜いた。これは、わずかでもずれれば永遠に失明することになる方法である。もちろん、ガレノスは、他の手法に関しては現代の医療の標準となるものも打ち立てている。

162年にはガレノスはローマに移り、執筆活動や講義、公開解剖などを行った。彼は名医としての評判を得て、顧客にも恵まれた。その中にはコンスルのフラウィウス・ボエティウスもおり、彼によってガレノスは宮廷に招かれた。そこで彼は皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの典医となり、のちにはルキウス・ウェルスコンモドゥスなども診た。当時ローマ帝国は北東国境をなしていたドナウ川周辺でマルコマンニ戦争を戦っていたが、ガレノスもマルクス・アウレリウスに従って従軍し、軍医を務めた。

ガレノスは主にギリシャ語で語ったという。当時は、医学分野ではラテン語よりもギリシャ語の方が上位と見なされていたのである。しかし、どの学派にも属していなかった彼は他の医師たちと対立し、166年から169年の間にペルガモンに戻ったとされているが、1年後にはマルクス・アウレリウス・アントニウス帝に呼び出されて再び宮廷に仕えた。マルクス・アウレリウスは長男が死亡したばかりであり、後継ぎとなった息子のコンモドゥスの健康を維持させるためにガレノスをコンモドゥスの侍医とした。コンモドゥスの治世中侍医を務め続け、さらにその後の混乱を勝ち残ったセプティミウス・セウェルス帝の侍医にもなった[2]192年頃、大火が起きてガレノスの著作のかなりが焼失した。ガレノスは200年頃に没した。
著作と影響De curandi ratione

ガレノスは、ヒポクラテスの医学をはるばるルネサンスにまで伝えた。彼の On the Elements According to Hippocrates は、ヒポクラテスの四体液説を叙述している。四体液説は人体が血液粘液、黒胆汁、黄胆汁から成るとする説で[3]、それらは古代の四大元素によって定義付けられ、かつ四季とも対応関係を持つとされた。彼はこの原理を基にして理論を創出した。しかし、それらは純粋に独創的なものというよりも、ヒポクラテスの人体理論の上に構築されたものと見なしうるものである。

ガレノスの主な著作のひとつとして、17巻からなる『身体諸部分の用途について』がある。ガレノスはまた、哲学や文献学についても執筆し、同じく解剖学についても広く執筆した。彼の全集は22巻にも及び、彼はその生涯のほとんどを通じて、執筆を行っていた[2]

プラトンにも一致するガレノスの理論は、単一の造物主による目的を持った自然(ギリシャ語physisピュシス、英"Nature" )の創造、を強調した。後のキリスト教徒やムスリムの学者たちが彼の見解を受け入れえた理由がここにある[4]。彼の生命に関する根源的原理は「生気」(プネウマ)であり、後の書き手たちはこれをと結びつけた。哲学に関するこれらの作品は、ガレノスの十分に円熟した教養の産物であり、彼は生涯を通じて医学への哲学的要素を強調することを頻りに行った。彼によれば、の中の動物精気 (Pneuma physicon) が運動、知覚、感覚を司る。心臓の生命精気 (Pneuma zoticon) が血液と体温を統御する。肝臓にある自然精気が栄養の摂取と代謝を司る。しかし、彼は血よりもむしろ生気が静脈を流れるという生気主義的理論 (Pneumatist theory) には同意しなかった。

ガレノスの知識は、生きた動物を使った臨床実験によって広がりを見せた。その一環として、一度に神経の束を切断するために生きた豚を解剖することを行った。その際に、豚に悲鳴を上げさせないために喉頭の神経を切断したが、この神経は現在、少なくとも英語では「ガレノスの神経 (Galen's nerve) 」とも呼ばれている。彼はまた、腎臓から尿が送られることを見るために生きた動物の尿管を結び、また麻痺を示すために脊髄の神経を切断した。ガレノスは、豚はいくつかの観点から解剖学的に人体とよく似ているということを理由に豚を使う旨を強調していたものの、バーバリーマカク山羊も解剖に使った。しかし、ガレノスは、自身を医学のより職人的な要素とは常に峻別していた。公開解剖は、他の論者たちの理論に対する論駁のためには高い価値のあることでもあったし、古代ローマで学ばれていた医学の主要な手法の一つであった。それは、出席し、しばしば議論に突入する多くの医学生たちにとって、全くの開かれたものであった。

現代から見れば、ガレノスの理論は部分的には正しく、部分的には誤りである。正しいことを示したこととしては、彼は、動脈が運ぶものは生気ではなく血液だということを示したし、神経機能、頭脳、心臓に関する最初の研究も行った。彼はまた、アリストテレスが心は心臓にあるとしたことに対し、心は脳に宿ることも示した。

しかし、現代の視点に照らしたときに、誤りがあることとしては、彼は循環系を認識していなかったし、動脈と静脈がそれぞれ切り離されたシステムであると考えていた。この考えの変更には、17世紀のウィリアム・ハーヴェイを俟たねばならなかった。彼の解剖学的知識の大半は、犬、豚、猿などの解剖に基づいていたために、彼は奇網(Rete mirabile:ラテン語で「驚異の網」の意、有蹄動物がもつ血管の網で一種の熱交換器官)が人体にも具わっていると推測していた[5]。彼はまた、流血の手当てに止血帯を用いることに抵抗し、治療法の一つとして瀉血を盛んに宣伝した。
没後の影響

ガレノス以後、ローマ帝国においては目立った医学の進歩は起きなかった。ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となったヨーロッパにおいてはガレノスの著作はほとんど消失してしまった。


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