ガルニエ宮
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ガルニエ宮

情報
用途歌劇場、バレエ・ホール
設計者シャルル・ガルニエ
建築主ナポレオン3世
構造形式ネオ・バロック様式
敷地面積11,237 m²
階数6
高さ82m(地表-屋上アポロン像の先)
着工1862年7月21日
竣工1875年1月15日
改築1964年(シャガールの天井画を取り付け)
所在地パリ9区オペラ広場
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度52分19秒 東経2度19分54秒 / 北緯48.87194度 東経2.33167度 / 48.87194; 2.33167 (ガルニエ宮)座標: 北緯48度52分19秒 東経2度19分54秒 / 北緯48.87194度 東経2.33167度 / 48.87194; 2.33167 (ガルニエ宮)
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ガルニエ宮(Palais Garnier)は、フランスの首都パリにある歌劇場である。単にオペラ座(l'Opera)と呼ばれることもある。パリ国立オペラの公演会場の一つである。

フランスの王立オペラの歴史は1669年にさかのぼる。作曲家ロベール・カンベール(Robert Cambert)と組んで宮廷オペラを作っていた詩人ピエール・ペラン(Pierre Perrin)の請願が、財務総監コルベールの仲立ちでルイ14世に許可され、『音楽アカデミー』ができたのである。この名称は時代とともに、政治体制とともに変わった[1]

パリの王立ないし国立のオペラ劇団が公演する劇場も転々と変わり、ガルニエ宮は13代目である。それまでの劇場は、ルーヴル美術館フランス革命までは『ルーヴル宮』)の中や隣だったことも、約1.5km離れていたこともあった[2]

1800年12月、第一統領だったナポレオン・ボナパルトが爆弾に見舞われたのは、8代目のテアトル・デ・ザール(Theatre des Arts)への途次であった。1858年1月14日ナポレオン3世が爆弾を投げられたのは、11代目のサル・ル・ペルティエ(Salle Le Peletier)の正面であった。これを機に、以前からの新オペラ座建設計画が1860年9月29日の政令で具体化し、同年12月29日、ナポレオン3世の第二帝政を称える記念碑的建造物の設計が公募された。

折から、セーヌ県知事オスマンパリ市街区の整理再構築(パリ改造)が進行中で、建設用地は取り払われ空き地となる現在地と決まっていた。

171の応募の中に一等賞はなく、佳作が6件であった。その中からシャルル・ガルニエの案が採択され[3]1862年7月21日に最初の礎石が置かれた。

1874年12月に工事を終え、1875年1月5日に落成式が行われた。この劇場は設計者の名から「ガルニエ宮」と呼ばれることとなった。

着工から完成までの十余年間のフランスには、1867年メキシコ出兵の失敗、1870年普仏戦争の敗戦とナポレオン3世の亡命(翌年没)、1871年パリ・コミューン第三共和政の発足などの大事件が多く、新劇場の工事を休むこともあった。

外観および内装はネオ・バロック様式の典型と言われ、たくさんの彫刻を飾り、華美な装飾を施した豪華絢爛たるものである。また建材には当時、最新の素材とされていたを使用した。これによって、従来不可能とされていた巨大な空間を確保することに成功した。2167の座席が5階に配分されており、観客収容規模でも当時最大の劇場であった。

なお、ガルニエ宮正面からパレ・ロワイヤルへ直に南下するオペラ座大通り(Avenue de l'Opera)は、この建設工事の一環として開かれた。

第二次世界大戦中ドイツ軍の占領下では、ドイツ軍の管理下で営業を続けた。1964年以降、劇場の天井画はマルク・シャガールによるものが飾られて、現代的な新味も盛り込まれている。

1989年には新しいオペラ劇場としてオペラ・バスティーユ(Opera Bastille)が完成し、以来ガルニエ宮では、バレエと小規模オペラ、管弦楽コンサートを中心とした運用が行われている。
建築様式ガルニエ宮のプラン

ガルニエ宮は際立って絢爛な建築物である。建築様式は記念碑的かつ重要な第2帝政期のボザール様式のものであり軸対称に計画されているが、外観の装飾はネオ・バロック様式の要素を伴った折衷主義のものである。[4]

これらには大変手の込んだ大理石のフリーズ、円柱および豪華な彫刻が含まれる。彫刻の多くはギリシャ神話の神々である。
外観
ファサードGumery's L'Harmonie (1869), atop the left w:avant-corps of the facade, is 7.5 metres (25 ft) of gilt copper electrotype

第一ファサードは建物の南に位置しオペラ広場 (w:Place de l'Opera) を睥睨し、オペラ大通り沿いの視点を終わらせている。装飾の制作には40人の画家と、モザイク職人と73人の彫刻家が参加した。

2体の黄金の彫像、シャルル・ギュムリー(w:Charles Gumery)の「ハーモニー(L'Harmonie)」と「詩情(La Poesie)」は第一ファサードの左右の前方張り出し部分(w:avant-corps)の頂点に据え付けられている。この彫像は両方とも電気による金メッキが施された銅像である。

2つの avant-corpsの基礎は(右から左へ)フランソワ・ジュフロワ(w:Francois Jouffroy)の「詩情(または調和)」[5]ジャン・バティスタ・クロード・ウジェーヌ・ギョーム(Jean-Baptiste Claude Eugene Guillaume)の「器楽」、ジャン=バティスト・カルポー(Jean-Baptiste Carpeaux)の「舞踏」そしてジャン・ジョゼフ・ペロー(w:Jean-Joseph Perraud)の「抒情劇」と4人の彫刻家による4つの彫刻群によって装飾されている。ファサードはまたギュムリー、アレクサンドル・ファルギエール(Alexandre Falguiere)その他による他の作品を組み込んでいる[6]

多数の偉大な音楽家の金メッキの電気鋳造の青銅の胸像は劇場前のファサードの円柱の間に位置しており、左から右へとロッシーニオベールベートーヴェンモーツァルトスポンティーニマイアベーアアレヴィである。中央ファサードの左と右の側面の「返し」には台本作家のウジェーヌ・スクリーブフィリップ・キノーの胸像が、それぞれ置かれている[6]
吹き抜け

劇場吹き抜けの南破風の頂点に位置する、「アポロ、詩情及び音楽」の彫刻群がエメ・ミレーの作品であり、ウジェーヌ・ルイ・ルケスヌ(英語版)作の2つのブロンズのペガサスの彫刻が南破風の両端にある。ガルニエ宮のファザードと彫刻群の説明
皇帝のパヴィヨン(Pavillon de l'Empereur)

皇帝のロタンダ(Rotonde de l'Empereur)として知られている、この複数の部屋は建物西側に位置し、安全が確保されるように、そして皇帝が直接入室できるように建物へ二重の斜道で連絡されている。

皇帝が失脚すると、機能は停止された。石造の装飾は未完成のままであった。ここはいまはオペラ座図書博物館(w:Bibliotheque-Musee de l'Opera de Paris )になっている。ここには10万冊の書籍、1680点の定期刊行物、1万点の上演プログラム、手紙、10万点の衣装、セットの写真、スケッチと歴史的名演のの記録を含む60万点の資料が保管されている。
支援者のパヴィヨン(Pavillon des Abonnes)

建物東側に位置する皇帝のパヴィヨンと対になる部屋は、劇場の支援者ら(Abonnes)が四輪馬車から建物内部へと直接入れるようにデザインされている。直径13.5mのドームによって覆われている。2対のオベリスクによって示されたロタンダの入り口の前に左右(北と南)にある。

西のファザードと「皇帝のロタンダ」

東のファザードと「後援者らのパヴィヨン」

内装大階段、1880年大階段

内装は、多数の人々の動きを受け入れることができる複合された廊下、階段吹き抜けと幕間に人々が社交の場とする空間から構成される。ヴェルヴェットと黄金の葉、智天使ニンフが豊富に使われ、内装はバロックの壮麗さで特徴づけられていた。
大階段

建物は赤と緑の大理石の欄干のある白大理石の大きな儀礼上の階段によって特徴づけられ、この階段一階から上階に向かって踊り場を経由して大休憩室へと導く2つの階段に末広がりに分かれる。この階段のデザインはヴィクトル・ルイ(w:Victor Louis)のボルドー劇場(w:Theatre de Bordeaux)の階段に着想を得たものである。階段の柱脚はアルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ(Albert-Ernest Carrier-Belleuse)による女性の姿をかたどった燭台によって装飾されていた。階段の上の天井はイジドール・ピルス(Isidore Pils)によって「アポロの勝利」「その魅力を展開する音楽の魔法」「オリンポスの神々に見られる無慈悲と戦うミネルバ」「新しい歌劇場の計画を受け取るパリの街」が描かれていた。これら絵画は劇場のオープン2か月前に初めて取り付けられたとき、ガルニエ宮においては空間に対して暗すぎたことが明らかになった。61歳にして病を得たピルスは、2人の弟子の助けを借りて天井にあるキャンヴァスに再製作しなければならなくなった。彼の弟子はオープン前に作品を完成させ、足場は撤去された[7]
大休憩室

このホールは高さが18m、長さが154m、幅が13mで、パリ社交界の応接間として機能するようデザインされた。それは2004年に修復された。その天井にはパウル・ジャック・エメ・ボウドリー(w:Paul-Jacques-Aime Baudry)によって天井画が書かれている。天井画の題材には音楽の歴史の様々な場面が取り上げられている。休憩室は外のロッジアに向かって開いており、それぞれの端は「月のサロン(Salon de la Lune)」と「太陽のサロン(Salon du Soleil)」になっている。現在でもオペラ座主催の晩餐会が開かれ大統領などが出席する[8]

大休憩室

パウル・ボードリーの天井画(部分)。中央の長方形は「音楽」西の端の楕円には「喜劇」が描かれている。

観客席

観客席は伝統的なイタリアの馬蹄型であり、1979の座席を有する。舞台はヨーロッパ最大であり450人程度を受け入れることができる。緞帳は表面にタッセルと組みひもなどが絡み、めくれ上がり、しわがよったカーテンのが直接描き込ままれた。

観客席

観客席とパヴィヨンの断面図

シャンデリアで囲まれた天井部分はもともとジュール=ウジェーヌ・ルヌヴーによる天井画があった。1964年に新しい天井画がマルク・シャガールによって描かれ、オリジナルの向こうにある撤去できないフレームに取り付けられた。この天井画は14人の音楽家のオペラの場面を描いている。ムソルグスキー、モーツァルト、ワーグナーベルリオーズラモードビュッシーラヴェルストラヴィンスキーチャイコフスキーアドルフ・アダムビゼーヴェルディベートーヴェングルックである。称賛する者がいたにもかかわらず「ガルニエの繊細に組み合わさった内装の失敗の記録」と感じる者もいた[9]観客席のシャンデリア
シャンデリア

ガルニエによって重さ7トンのブロンズクリスタルのシャンデリアがデザインされた。


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