ガルシア・ロルカ
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フェデリーコ・デル・サグラード・コラソン・デ・ヘスス・ガルシーア・ロルカ(Federico del Sagrado Corazon de Jesus Garcia Lorca、1898年6月5日 - 1936年8月19日)は、スペイングラナダ県出身の詩人劇作家。ガルシア・ロルカとも表記される。27年世代のひとり。
評価

ロルカは画家サルバドール・ダリや映画監督ルイス・ブニュエル、評論家セバスティア・ガッシュなど様々な親交があった。ダリには詩集を捧げており、彼の妹とも親しかった。その一方で、作品の内容から彼は同性愛者であったと言われている。

アンダルシアジプシーを詠んだロマンセ(歌)集『ジプシー歌集』が代表作である。(もっとも、アンダルシア人からはこれは実像でないと批判された。作家ボルヘスは彼を「プロのアンダルシア人」と評した)。

日本でも1930年には詩が訳されている。また、戦後になって劇作品が多く紹介・上演された[1]三島由紀夫も訳書を通じ激賞している[2]

生きていればノーベル文学賞の受賞も有り得たと評されている[3]。俳優の天本英世がロルカの詩を好んで朗読することで有名であった。

音楽、絵画においても多彩な才能を示したが、そのリベラルな作品と言動のため、スペイン内戦の際にファランヘ党員によって銃殺された。作品の質のみならず、その悲劇的な最期も人気に一役買っていると言われる[3]
経歴

1898年、グラナダ県の村、フエンテ・バケーロス(スペイン語版)の農場主の家庭に、長男として生まれる。生後二ヶ月で小児麻痺にかかり、以後軽い歩行障害に悩まされるようになる。1909年、イエスの聖心学院入学。家庭ではヴェルディの弟子であったアントニオ・セグーラに音楽を習う。1915年、グラナダ大学の法学部と文学部へ入学。父親はロルカが弁護士になるのを希望していた。

1918年、処女著作『印象と風景』を自費出版。反響はまったくなかった。1920年、マドリードの学生寮に住み、詩の朗読で有名になる。戯曲「蝶の呪い」が初演されるが、失敗に終わる。1921年、詩集『詩の本』を出版。新聞で批評されるなど評判は悪くなかった。1923年、法律の学士号を修得。この頃、ダリと出会っている。

1927年、詩集『歌集』出版。マドリードのゴヤ劇場で最初の戯曲作品『マリアナ・ピネーダ』初演。バルセロナでロルカ素描展開催。1928年、詩集『ジプシー歌集』出版。文壇から絶賛され、名声が一気に高まる。1929年、アメリカ合衆国を訪問。コロンビア大学のSchool of General Studiesに短期留学をした。1930年、ウォール街に強い嫌悪を覚えたロルカはキューバを訪問。現地の芸術家と交流を行い、再びグラナダへ戻る。スペインではプリモ・デ・リベーラ政権が崩壊、第二共和制が成立。

1931年、『カンテ・ホンドの詩』出版。1932年、大学生劇団バラッカを設立。古典劇の普及に努める。1933年、『血の婚礼』初演。大成功を収める。10月にはアルゼンチンを訪問し、熱狂的に迎えられる。1934年、『イェルマ』初演。1935年、前年に牛に突かれた傷がもとで亡くなった闘牛士を悼んだ詩集、「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀悼歌」出版[4]

1936年、内乱の雰囲気が高まるなか、ロルカはマドリードから故郷グラナダへ戻る。数日後、モロッコフランコが反乱軍(英語版)を指揮し本土へ侵攻、スペイン内戦が勃発する。ロルカは友人のファランヘ党員の家へ逃げ込むが、8月16日、友人の留守中に逮捕、県庁舎に連行される。8月19日早朝、グラナダ近郊のビスナル(スペイン語版)からアルファカール(スペイン語版)への途上で三人のレジスタンスたちと共に銃殺された。38歳。

銃殺の折、ロルカは自由を叫びながら毅然と死んでいったという伝説が伝わっているが、当時軍に徴発されており、ロルカ処刑に居合わせたタクシー運転手の老人が後年語ったところによると、ロルカは死の恐怖に怯え、命乞いをしていたという[5]。ダリは親友ロルカ急逝の報を受けて、ただひと言「オレー!」と叫んだと伝えられている。

フランコ政権によってロルカ作品は発禁となった。1953年に厳しく検閲された全作品集(Obras completas)が出版されたが、これには後期の作品の一つが収められていなかった。1975年にフランコ将軍が死去するまで、スペインでロルカを自由に語ることはできなかった。そのため、ロルカ作品の上演、研究はフランスなどのヨーロッパの方が先行していた(参考資料の小海永二はフランス文学者)。


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